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2005/12/28

pandora.com

「自動音楽レコメンド・サービス」と聞いて、半信半疑でのぞいてみたのが「pandora.com」。これはハマりそう!
最初に「Create a New Station」というウィンドウがあらわれるので、自分の好きなアーティスト名、あるいは曲のタイトルを入力。ためしにここで「john denver」と入れて、右側の「create」ボタンをクリック。すると、「John DenverのStationを作ります」というようなメッセージが現れ、つづいて「とりあえず、フォーク系で、マイルドなシンコペーションがあり、アコースティックな響きで、うねるようなメロディのフレージングで、長調の曲から始めます」というようなメッセージ(メッセージはすぐに消えてしまうので、だいたいこんな感じ、ということでご容赦を)が出て、曲が始まる。最初は「The Eagle and Hawk」。大好きな曲なんだけど、ジョン・デンヴァーにしてはシャウト系でこのあとこういう曲ばかり続くのはいやだなあ、と思っていたら、次にかかったのはサイモン&ガーファンクルの「The Dangling Conversation」。けっこう穏やかな感じで、「いいぞいいぞ」とそのままにしていたら、こんどはポール・サイモンで「American Tune」(S&Gとは別のアーティストとみなされるらしい)。そしてつづくはニール・ダイアモンドの「Marry Me」。そうくるなら、ニールつながりで、ニール・セダカの「Laughter in the Rain」で新しいStationを作ってみようかな……てな感じで、かなりハマってしまうのであります。ちなみに、アチラが選んだ曲が気に入らなければ、もちろん「ダメ出し」もできます。
つまり、うまくいけば、「自分の好みの曲ばかりがかかるラジオ局」ができあがるわけです。この正月休みはいろいろ試してみるかな。
あ、クラシックはないみたいです。日本の曲もね。[genki]

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kizasi

知人が最近はじめたネット・ビジネスをご紹介。「kizasi.jp」といいます。無数のblogにおいて話題になっていることば(「kizasi語」というらしい)を10分ごとに抽出しランクづけして表示する、というもの。たとえば、いま(2005/12/28,14:10現在)トップに表示されているのは、「東三ツ木」ということば。「なんやこれ?」と思いますが、どうも「ボウリング場で約11時間にわたり、48ゲームをひたすらひとりで投げつづけたすえに料金を支払わなかった男」がいたらしく、その男の住所が「埼玉県狭山市東三ツ木」なのだそう。これが、いま現在もっとも「ホット」な話題、というわけ。
このサービス、とうぜんカテゴリー分けもでき、「いまもっともホットな音楽の話題は?」などを瞬時に知ることができるようになるわけです。現在、すでにone size fits all式のマス・マーケティングは立ちゆかなくなってきていると思いますが、これは使えそうですね。ちまたの生の声を10分おきに確認できるスピードがすごい。[genki]

◎追記
こんなところでも話題に! ライブドア証券取引法違反疑惑に関連して。[2006/01/17]

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2005/12/27

TENORI-ON〔テノリオン〕

名前お世話になっているデザイナーのKさんから、面白い楽器〔アート?〕を教えていただきました。ヤマハがメディア・アーティストの岩井俊雄さんと共同で開発中の「TENORI-ON」。
センスがいいだけじゃなく、なんとなくほっとする──遊び心のあるデザインがうれしいですね。音色もgood。[genki]

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2005/12/22

サリエーリ:重版決定

先日、「第27回マルコ・ポーロ賞」を受賞した水谷彰良著『サリエーリ──モーツァルトに消された宮廷楽長』の、待望の重版が決定しました。
来年は「モーツァルト生誕250年」でもありますから、“敵役”サリエーリにこれまで以上に注目が集まるのは必定。それだけでなく、2004年12月に約2年間の改修工事をへて新装なったミラノ・スカラ座のこけら落としには、サリエーリの《見出されたエウローパ》が上演されました。この作品は1778年のスカラ座落成時の演目でもありますが、「モーツァルト毒殺説」に汚された不幸な晩年いらい、歴史の闇に埋もれていたサリエーリが、21世紀に入ってようやく「見出され」、これから本格的な復興が始まることを予感させます。
「日本において、このような書物が現れたこと自体、まさに奇跡」(安田和信氏/『レコード芸術』2004年6月号)とまで評された力作。どうぞこの機会にお読みください。[genki]

◎追記
・音楽之友社OnLineの「神楽坂通信」の関連記事。[2006/02/07]

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2005/12/20

社会運動から芸術へ:毛利嘉孝『文化=政治──グローバリゼーション時代の空間叛乱』

唐突ですが、小生、会社の労働組合に所属しております。最近はどこでもそうなのかもしれませんが、わが組合もまた組織率が低く、いかにして組合員を集めるか、ということがよく話題にのぼります。あるときも集会でそんな話題がでたときに、「んなこといったって、やってることが楽しくなきゃ、ひとはあつまんないよ」的なことを、きわめてラフに、けれどもきわめて正直に発言したことがあったのですが、それまでのまったりとした空気がいっきに引き締まり、「お楽しみで集まってくるような奴らは必要ない」というような意味の発言が、複数の幹部から発せられました。あちゃー、ごめんなさい、ってかんじでその場は退散したのではありますが、このように、小生、会社にも組合にも拭いがたい違和感をもちながら、日々を過ごしているわけであります。
さて本題です。毛利嘉孝著『文化=政治──グローバリゼーション時代の空間叛乱』(2003,月曜社)を読了。ひじょうに気持ちのよい本でありました。毛利さんは『カルチュラル・スタディーズ入門』(上野俊哉との共著、2000,ちくま新書)をはじめとする著書・訳書があり、「カル・スタ」の専門家といっていいのだと思うのですが、「カル・スタ」とはなんたるかをよく知らないまま、なんとなく遠巻きに見ておりました。
この本は、旧来の左翼系社会運動とはまったく異なる「新しい社会運動」が、いま世界中で、同時多発的におこなわれている、その現状を伝えるとともに、それが「政治運動」であるだけでなく、ある意味「文化運動」でもあるということを明らかにしたものです。これまで「政治」にかかわりをもとうとしなかったタイプ(ノンポリといってもいい人たち)が、「面白そう」という感覚で、デモなどにかかわっていく。旧来の見方では理解できず、マスメディアも「不思議な現象」として扱わざるをえなかった彼らの「きもち」に、押しつけがましさを感じさせることなく、ふみこんでいます。
“いまどきの”若者が、軽いノリで社会運動に参加するあり方に希望をいだく著者のスタンスは、もしかするとオプティミスティックにすぎる、と批判されるかもしれません。こうした「新しい社会運動」に実際になにかを変革しうる「実効性」があるのだろうか、という疑問もあるでしょう。
でも、著者はほんとうにオプティミストなのだろうか。いまどきの社会運動に参加している若者たちは、そもそも「実効性」を求めているのだろうか。なにか具体的な「目標」をかかげていたとしても、そしてそれを真剣に求めていたとしても、それにも増して、いまこの時点で自分が社会に感ずる「違和感」を表明することのほうが、彼らにとっては重要なことなのではないでしょうか。
旧来の政治運動が(左であっても右であっても)「歴史の過去を正当化し、未来を収奪する」こと、つまり「時間をわがものとする」ことに心血をそそいできたのに対し、いまどきの社会運動は「いま、この瞬間に、自分の存在するこの空間を奪い取る」ことをめざします。逆にいえば、自分が存在するということの意味が、いやおうなく他者によって規定され、自分の身体が占めるこのちっぽけな空間さえも自分のものにならない、そうした社会にたいする拭いようのない違和感こそが、彼らにとって問題なのです。
少し引用してみます。

……人が自分以外の他者と関係を結んでいく過程で、啓蒙的な言説だけではなく、神的としか、あるいは、身体的としか呼べない世界認識のあり方を要求することについて、もっと真剣に考える必要があると思うのだ。
 新しい運動が、システムの限界における亀裂を示しているとメルッチが言う時、それはある奇跡的な時間の到来を暗示している。その時間とは、論理的な思考から絶えずこぼれおちていく例外的な出来事が、突如としてあたかも必然的に照応していくような瞬間である。この新しい運動は理性に従属することをやめて、きわめて身体的な反応になる。新しい文化=政治運動が、一定の成果を収めつつあるとしたら、ひとつにはそれが身体的な反応に裏打ちされているからである。
 それは、私たちが生きている世界に対する深い理解によるのではなく、私たちがとんでもない世界に生かされていることに対する身体的な嫌悪感によるのだ。この嫌悪感は、フロイトなら無意識と呼んだ領域にしまいこまれていたものだ。私が最近の新しい文化=政治運動に期待しているのは、それがひとつのイデオロギーではなく、この身体的な反応によって動かされているからである。(p.200)

たとえば、「自動車が走る空間」として、だれかがいつのまにか規定した道路を占拠して、そこをダンス会場にすること。「反自動車運動」というもっともらしい名前はついていても、それはむしろ心にわだかまる「ちっぽけな疑問」「どうでもいいような違和感」を、不問に付して無意識の片隅に追いやってしまうことなく、それにたいしてあえてかたちを与え、ことばを与えるいとなみです。それは「政治」というよりも、やはり「芸術」「文化」と名づけたほうがいいような、繊細ないとなみだと思うのです。
毛利さんは今年から東京芸術大学に勤務されていますが、この「文化」の総本山から、これからどんな「運動」が発信されてくるのか、とても楽しみです。[genki]

 

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2005/12/19

リゲティ、ベリオ、ブーレーズ:重版決定!

当blogのレギュラー・ライターでもある沼野雄司さんの初の単著『リゲティ、ベリオ、ブーレーズ──前衛の終焉と現代音楽のゆくえ』については、11/16に「重版ができない」と書いたばかりですが、このほど音楽之友社では「大英断」(?)がくだされ、めでたく重版が決定いたしました(パチパチ)。
「在庫僅少」どころか、枯渇していてプレミアがつきかねない状況ですので、これから大急ぎで重版の作業をして、1月中には、と思っております。11/16にも書いたように価格がどうなるか、ちょっと心配です。 でも、まずはよかったよかった。[genki]

◎追記
・下のリンク、現時点では「在庫切れ」になってますけど、とうぜんですね。しばしお待ちを。[2005/12/19]
・価格は「本体2,900円」に据え置きとなりました。よかった![2005/12/21]

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2005/12/15

プーシキン美術館展(@東京都美術館)

打ち合わせの時間を間違えて、とつぜん手持ちぶさたになったわたし。プーシキン美術館展を見てきました。
セザンヌ、ピカソ、ドガ、モネ……。すごいコレクションです。
ポスターにもとりあげられたマティス『金魚』。期待を超える素晴らしさでした。ひじょうに2次元的な画風ですが、あえて透視画法的な技法を排してこそ得られる、心理的な奥行き。マクルーハンふうにいえば、「触覚的」と表現できるでしょうか。
絵画の醍醐味は、いかに観る者の内的な想像(創造)力を活性化するか、でしょう。あらためて、芸術は精神のビタミン剤だ、と感じました。[genki]

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2005/12/14

クラシック・ジャパン「即評blog」

「毎日24時までチケットが買える」で話題の「クラシック・ジャパン」が、「即評blog」なるものをはじめました。
要するに、演奏会批評を翌朝読めちゃう、というサービス。書いてるひとは、さまざまな媒体でよく見かけるお名前で、12/1から始まったばかりですが、これから充実しそうな予感。
不思議なのは、この「即評blog」も、それ以前に始まった「デイリーニュースblog」も、いずれも当blogと同じココログのサービスをそのまま利用している点。小生、よくわかりませんが、なにか深遠な考えがあってのことなのでしょうか? それと、blogなのになぜ「コメント」や「トラックバック」を拒否するのか? もちろん、ヘンなコメント付けられたらたまらん、っていう気持ちはわかりますが、blogであるメリットをみずから否定してないか? うーむ。[genki]

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2005/12/13

ナクソス・ミュージック・ライブラリー

噂には聞いていたが、これはけっこうすごそう。「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」。
月額1,890円でナクソスの全タイトル150,000曲が聴けちゃう、というのは、やっぱりすごくないですか? ダウンロードはできないみたいだけど、いまやパソコンをCDプレイヤーとして使ってる人も多いでしょう。考え方しだいなのでは? とくに音楽ライターとか学者さんは重宝しそう。「誰が演奏してるか」は問わず、とにかく「あの曲が聴きたい」という場合に、一種の字引として使えるわけで、そういう意味ではやはりプロ向けのサービスといえるかも。
会員サービスのひとつとして、音楽之友社の『新編音楽中辞典』がそのうちに使えるようになるらしいですが、「プロ向け」ということになると、ちょっと情報量が足りなくないかな。どうでしょうか?
ちなみに、謳い文句に「Naxosの全タイトルを毎月CD2枚分の価格で聴ける」とありましたが、これもナクソスならでは。ほかのメーカーだったら「CD1枚より安い」って書くだろうなあ。[genki]

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2005/12/12

「作らないデザイン」

12/11(日)のNHK教育『トップランナー』のゲストはデザイナーのナガオカケンメイさん。「作らないデザイン」という独自のコンセプトに共感しました。
いわく、「デザイナーというものはきれいごとを唱えながら、むりやりにでも新しいものを作ってしまう存在である」(「三鷹天命反転住宅」もこれか?)。「作らない」というのは、ある意味、デザイナーとしてのアイデンティティを自己否定するコンセプトでもあるわけですが、そこにはナガオカさん一流の戦略があるようです。無農薬野菜を作るには、まず数年間かけて残留農薬を土壌からなくさなければならない。「デザイナーは新しいものを作る存在」という考え方は、いってみれば「農薬」のようなもの。時間はかかるかもしれないけれども、「作らない」ということをふつうに受けいれられるような土壌を作っていきたい──というナガオカさんの思想は、デザインにかぎらず、さまざまな分野に適用可能なアイディアだと思います。
小生の仕事である「出版」にしても、制作・流通・販売という「業界のしくみ」をなりたたせるために、新刊書をどんどん作り出さなければならない、という現実があり、「本って、そんなにたくさんなきゃいけないものなの?」という「身も蓋もない」疑問がフツフツとわきあがってきます。ナガオカさんが選んだ「よいデザイン」の品を売る(しかも、自分がデザインした商品は置かない)ショップ「D & DEPARTMENT」のように、「作らない出版社」ができればいいのになあ、と思ってしまいます。ほんとうに必要な少数の本を、息長く売ることができるような出版社──。とうぜん、「作らない勇気」「あえて語らない勇気」がそこには必要でしょう。でも、ぼくたちみんなが、少しずつそんなことを考えるだけでも、もうちょっと風通しのいい世界になるんじゃないかなあ。
ホスト役の山本太郎さんの的を射たツッコミにも、ちょっとびっくり。外見の印象で「肉体派」みたいに思ってたけど、なかなかどうして文化を語る視座ももちあわせた「知性派」でもあるようです。
ナガオカさんの「日記」が公開されています。興味のある方はコチラへ。[genki]

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パソコンはテレコになったか?

以下の文章は、「音楽之友社OnLine」の1コーナー「テーマ別ブックガイド」のために、小生が書いたものです。お題は「デジタル・ミュージック」。このたびそちらから削除されることになり、消えてしまうのももったいないので、こちらに再録しておこうと思ったしだい。
音楽之友社では数年間、パソコン・ソフトのマニュアル本をシリーズとして出していて、小生がその担当をしておりました(だんだん部数が少なくなり、現在はほぼ撤退の状況)。商品の宣伝のために書いた文章ですが、かんじんの商品の名前はいっさい書かれていませんね(苦笑)。宣伝文としてはなっていないかわりに、使い回しはしやすいな、と。
ご笑覧ください。[genki]

* * *

 昔からコンピュータで音楽をつくる人はいた。コンピュータのことを「電子計算機」といっていた時代。その計算機がはじきだした演算結果を音符の順番やリズムなどにあてはめた、どっちかというと“小難しい”音楽──それが「コンピュータ・ミュージック」だった。
 時代は下って、現在では「デジタル・ミュージック」というほうが一般的なようだ。縁のない人には、「どこがちがうの?」ということかもしれないが、じつはここには大きな隔たりがある。
 コンピュータが音楽制作や録音の現場にふつうに登場するようになったのは、1980年代のことだ。最初は「打ち込み」の道具として。MIDIという規格による制御信号によってさまざまな電子楽器を自動演奏させるのが、パソコンの役割だった。そのころからパソコンで打ち込みをやることは「DTM(Desktop Music)」とよばれるようになる。いろんなメーカーや楽器店が「楽譜が読めなくても、楽器が弾けなくても、パソコンがあれば音楽ができる」という謳い文句で、MIDI機器の利便さを喧伝していたけれど、道具は使いやすくなっても使うほうの人間のアタマが変わるわけじゃなし、けっきょくMIDIあるいはDTMはまだまだ一般人には敷居の高いものだった。

 その風潮が変わってきたのは、90年代にはいって、パソコンじたいに音を録音するようになってからだ。磁気テープに記録された音声は基本的に編集することができない。もちろんテープそのものを切り貼りしたり、再生の過程で電子的に音質を変化させるのは可能だが、手間もかかるし、コストや専門技術も必要となる。しかし、パソコンのハードディスクの容量が飛躍的に増え、1分間で10MB以上になる音声ファイルを楽にあつかえるようになって、パソコンに音声を録音し、録音した音声を編集することが可能になった。音声にエフェクトをかけたり、録音した素材を細かく切って並べることまで、ディスプレイ上で簡単にできるようになった。「ぼくの曲、スネア・ドラムはリンゴ・スター、バス・ドラムはジョン・ボーナムが叩いてるんだよね」なんてことが、素人にもできるようになったのだ。
 MP3などの圧縮技術が一般的になったこと、そしてCD-R/RWの普及により市販のCDのリッピングを誰もがおこなうようになったことも、みのがせない。つまり、パソコンは音を録音したり聴いたりダビングしたりするオーディオ機器になったのである。そしてそのころから、「デジタル・ミュージック」という言葉が市民権をえた。
 「コンピュータ・ミュージック」の時代、コンピュータは作曲の道具だった。「DTM」の時代、パソコンは編曲や演奏の道具となった。そして現在、「デジタル・ミュージック」の時代、パソコンは録音、鑑賞そしてコミュニケーションの道具となったわけだ。「コンピュータ・ミュージック」と「デジタル・ミュージック」のあいだに大きな隔たりがある、と書いたのはそういうわけである。

 昔、「計算機」だったコンピュータは、いまはさしずめ「カセットテレコ」みたいなものかもしれない。ラジカセを前に、ギター片手に自作の曲を歌う──誰にでもおぼえのある光景にちがいない。コンピュータはやっとこさ、テレコの簡便さに“追いついた”のだ。そしてこれからが、「コンピュータ・ミュージック」の本当の始まりかもしれない。

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2005/12/11

更新情報20051211:沼野雄司のコーナーが始まりました!

もうお気づきかもしれませんが、このblogに強力な助っ人が登場! 音楽学・音楽評論の沼野雄司さんのコーナーが始まりました。現代音楽、現代芸術が中心になると思いますが、とくにテーマは設定せず、ここでしか読めないエッセイ、評論、演奏会評などを書いていただくつもりです。沼野さんの記事をまとめて読みたいときは、右側のカテゴリー・リストの「numano's view」をクリックしてください。今後の展開をお楽しみに![genki]

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2005/12/10

三鷹天命反転住宅


 なかなか現代音楽の話題にたどりつかないのだが、ともかくは現代芸術ということでご容赦願いたい。三鷹の天命反転住宅について。

 荒川修作が、三鷹に新しい集合住宅を作るというのは前から知っていたが、ふとサイトで地図をみたら、我が家から自転車で10分程度の場所だと判明。天気もよかったので、さっそく休日に家族3人で覗きにいってみた。

 天命反転住宅 http://www.architectural-body.com/mitaka/

 東八道路からちょっと入ったところに、あっけなく発見。写真で見たまま、まさにそれ以上でも以下でもないといった外観だったが、強いて言えば思ったよりも小さめというところか。まだ誰も入居していないので、家の中もガラス越しによく見える。確かに床はごつごつした突起があって波打っているし、キッチンのあたりが、ごそっと窪んでいるのもよく分かった。

 この「天命反転住宅」に住むと、そのアンバランスな造形のために身体の眠っていた細胞が活性化し、結果として「超長生き」するということなのだが、そこら辺の基本的なメカニズムは荒川とマドリン・ギンズの近著「建築する身体」に詳しい・・・ようだ。「ようだ」というのは、この本、深く哲学的なようで、しかし到るところで辻褄があっていないような、つまりは例のごとくの荒川節に満ちており、結局、私は10分ほど立ち読みしただけで買わなかったからである。

 四方田犬彦の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」には、ニューヨークのソーホーで仕事をする荒川修作の姿が紹介されている。実は私はこれを読んで初めて彼のことを知ったのだが、この本が出た80年代末の状況の中では、荒川の「前衛」芸術活動はひどく時代遅れのようにも思えた。ところが21世紀に入り岐阜の「養老天命反転地」がオープンしてからは、なんだか様々な場所で彼の名を目にすることが多くなった。そしてついには近所にこんな建物が出現したというわけだ。

 面白かったのは、天命反転住宅の斜め向いにマクドナルドがあり、そこに併設された子どもの遊び場(街道沿いのマックによくある、プラスティックのボックスがいくつも連なっているもの)が、色といい形といい、天命反転住宅と実によく似ていたことだ。あの類似には、なにか宿命的なものを感じる。マルクスを信奉する作家の饒舌な思考の果てにたどり着いた地点が、アメリカ的なチープの世界にそっくりというのは、一体いかなるものか。 [沼野雄司]

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2005/12/09

東京芸大アートパス(2005/12/09@取手)

芸大美術学部の絵画科、先端芸術表現科、音楽学部の音楽環境創造科などの集まっている取手校地での文化祭(?)に行ってきました。
取手駅からの無料送迎バス「サイトシーイングバスカメラ」がまず面白かった! 昔懐かしいボンネットバス(写真)の中は真っ暗で両側の座席の間に大きな白い布が吊ってある。つまり、バスそのものが暗箱(カメラオブスクラ)となり、ピンホールから入ってくる映像がスクリーンに映しだされる、という仕掛け。スクリーンには外の景色が逆さまに映しだされるので、乗っているひとは、上下逆になった世界をバスが後ろ向きに走っていく、という感覚を味わうことができるわけです。でも、「サイトシーイング」とはいっても映画を見ているような受け身の感覚ですから、バスから降りたときは、いきなりものすごく辺鄙なところ(失礼!)に連れてこられちゃった、という戸惑いがありました。
内海信彦氏(美術)の「Walking People」というコンセプトにもとづくジャズ・ベーシスト金井英人氏ほかによるライブでは、エネルギーに満ちたフリー・インプロヴィゼーションが聴けました。ネイティヴ・アメリカンの歌や笛、エレキ・ギター、パーカッション、そしてウッド・ベースという編成で、それぞれの奏者が自分の楽器をとことんまで相対化していく厳しさには学ぶものがありました。学生の作品展示も面白かったですが、みなさん、個性をだそうと一生懸命になってる様子が、作品の世界よりも前面に表れているようでした。[genki]ts310082.JPG

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2005/12/05

青春アミーゴ

 このところ気に入っているのが、「修二と彰」の「青春アミーゴ」だ。 最近のポップスでは珍しく、歌詞が物語調になっていて、つまりは故郷をとびだしたチンピラ(?)二人が都会で夢半ばにして死んでゆくというもの。

 もちろん、バカバカしい曲と言ってしまっても一向に構わないのだが、なかなか周到なのは、「アミーゴ」という、半分ギャグのようなスペイン語の単語と、それに見合った似非ラテン風なサウンド。このおかげで、歌詞では明言されていない舞台設定は、日本のどこかの地方→東京というよりは、メキシコ→ロサンゼルスといったあたりを連想させ、さらには安い歌詞とジャニーズの二人の青っぽい歌とがシンクロして、期せずして・・・いやおそらくは作り手の計算通りに、不思議なリアリティが生まれている。シチュエーションはやや違うものの、映画でいえば「真夜中のカウボーイ」の現代版のようなイメージ。

 毎日のようにクラシック/現代音楽の演奏会に足を運びながらも、ここで最初に語る音楽が「青春アミーゴ」になってしまうというのも、ナンな話だ。これは現代音楽が悪いのか、あるいは私の趣味が悪いのか(おそらく両方でしょう)。ただ、実感としていうならば、少なくとも昨今の現代音楽には「青春アミーゴ」のように、俗でチープな素材を確信犯的にひっくり返しながら、聴き手に引っかかりのある商品を作る技術や知性、そしてユーモアが欠けていることは確かだ。

 当たり前の話ではあるが、大衆音楽は正々堂々と俗情を扱いうる点で「得」である。しかし現代のほとんどの芸術音楽は、意外にも?この俗情を超えることができない。少なくとも語の定義上、これを超えることが「芸術」の使命であるはずなのだが、結果としては俗情以下のところで、ぐるぐる回っているというのが大半ではないだろうか。

 ・・・というあたりから、今日の状況についてつらつら考えていきたい。[沼野雄司]

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2005/12/02

iPodと交響曲の関係

一昨日のフェリス女学院大学の公開講座に関連して、もうひとこと。
アップルの山本社長のお話のなかで、とうぜんのことながら大きな部分を占めたのは、「iPod」および「iTMS(iTunes Music Store)」の話題でした。
小生、iTunesは日常的に使っていますが、iPodをもっていないこともあり、いまひとつ積極的に「音楽配信」というものについて考えてきませんでした。iTMSを利用したこともないので、そのうえで、ぼんやりした感想ていどのことを書きます。
もし質疑応答の時間があったら、ぜひ聴いてみたいと思っていたのが、「iTMSではクラシック音楽についてどのように考えているのか」ということ。もちろん、「クラシック」というカテゴリーは存在しますね。小品だけじゃなく、あるていど長尺の音楽もすこし価格を上げて販売しているようです。
「ジャンルによって軽重をつけたりはしていない」という答えが返ってくることは、とうぜん予想されるし、それはそうなんだろうな、と思うんですが……。
小生の心配していることを書きます。ポピュラー系の音楽の場合、個人が自宅で録音したものでも、いまやプロがスタジオで録音したものと遜色ないクオリティの音楽が制作できます。それを、レコード会社を介さずに、iTMSで販売することも可能です(そうした手続きを代行する代理店もあり、日本でももうすぐ営業を始めるようです)。つまり、「録音・プレス・ディストリビュート・著作権管理といった、これまでレコード会社にしかできなかった専門的業務」の意味がなくなるわけです。
「iPodが売れるとCDが売れなくなる」という議論よりも、レコード会社にとって切実なのはむしろこっちのほうで、たとえばかなりの空間を占有する録音スタジオやマスタリング・スタジオとか、プレス工場だとかの稼働率がどんどん下がっていって、会社そのものを維持できなくなってくる──ということのほうを怖れているのじゃないかと考えます。
そうすると、レコード会社はそうした稼働率の悪い空間や部門をどんどん切り捨ててスリム化していくしかしかたありません。そうするとどうなるかというと、あるていど以上の空間を必要とし、個人ではいまのところ不可能といっていいスキルを要求されるような、オーケストラをはじめとする大編成の音楽の録音が、だんだんやりにくく(つまり割高に)なっていくのではないか、ということです。
作曲家や演奏家にとっても、そういった、いまだにレコード会社に頼らざるをえないようなジャンルの作曲や演奏を、避けるようになっていくかもしれません。
「iPodが流行ると、交響曲がなくなる」──っていうのは大げさでしょうか? 「アップルはできあがった音楽を売るだけ」って開きなおられそうですが、そういうところまで考えているのかな、考えていなくていいのかな、とどうしても思ってしまうのです。[genki]

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2005/12/01

フェリス女学院大学公開講座「デジタル音楽の可能性」(2005/11/30@フェリス緑園キャンパス)

音楽教育への新しいとりくみが認められ、文科省の「平成17年度現代的教育ニーズ取組支援プログラム」に採択されたフェリス女学院大学音楽学部の「若い女性の視点からの音楽コンテンツ創造」。その一環として始まった第1回特別公開講座を聴いてきました。
講師はアップルコンピュータ株式会社代表取締役社長・山元賢治さんと同社ソリューションエキスパート・吉崎誠多さん。
全体的な印象としては、山元社長によるアップルの企業宣伝に終始したという感じで(就職をひかえる学生にとってはそのほうがよかったのかも)、もうすこし音楽そのものの話が聴きたかったのですが、マカーである小生としては、日頃の鬱憤を晴らすような勇ましい話題のオンパレードで、楽しく聴きました。
社長の話が長すぎて、吉崎さんの話が導入で終わってしまったのは残念。GarageBand、Logicといったソフトを中心に、今回フェリスに導入された音楽制作環境の紹介でしたが、うーむ、あのていどなら自宅でもできるし、すこし知識のある学生なら常識的に知っているだろう内容ばかり。
アップルには、「音楽教育」というものへのヴィジョンがまだないのかもしれない、ということがはからずも浮き彫りになった観もあり、逆にフェリスのような現場の知が、これからどんどん積み上げられていくことが必要なのだろうと思いました。
GarageBandを例にとれば、あらかじめ用意された、個人ではとうてい使い切れない量のオーディオ・ループやMIDIのパターンを貼り付けていけば、短時間でしかも高品質の音楽を制作できる、といった類のソフトであるわけですが、音楽を専門に学びにきているような学生にそんなもの使わせてどうする、という気もします。膨大なプリセットを提供して、そこから自分の感性にあったパターンを選択させる、というのは、教育において有効なようですが、けっきょくは「選択肢の枠内でしか働かない想像力(創造力)」を育てる危険性もあるのではないでしょうか。その方向でいくかぎり、どんどん選択肢を増やしていくしかない。デジタルカメラの画素数が上がるように、「感性へのフィット感」は増してくるかもしれませんが、基本的に「あらかじめ用意された音」をコラージュしているだけ、という状態に変わりはありません。
昔のマックのソフトは違った。選択肢など示してもらえない代わりに、使い方の工夫しだいでそこには無限の可能性が感じられたものです。
アップルよ、どこへ行く?──そんなことを感じながら、帰途につきました。フェリスには、ぜひアップルも想像していないような音楽教育を実践してもらいたいものだと期待しています。[genki]

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