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2005/12/20

社会運動から芸術へ:毛利嘉孝『文化=政治──グローバリゼーション時代の空間叛乱』

唐突ですが、小生、会社の労働組合に所属しております。最近はどこでもそうなのかもしれませんが、わが組合もまた組織率が低く、いかにして組合員を集めるか、ということがよく話題にのぼります。あるときも集会でそんな話題がでたときに、「んなこといったって、やってることが楽しくなきゃ、ひとはあつまんないよ」的なことを、きわめてラフに、けれどもきわめて正直に発言したことがあったのですが、それまでのまったりとした空気がいっきに引き締まり、「お楽しみで集まってくるような奴らは必要ない」というような意味の発言が、複数の幹部から発せられました。あちゃー、ごめんなさい、ってかんじでその場は退散したのではありますが、このように、小生、会社にも組合にも拭いがたい違和感をもちながら、日々を過ごしているわけであります。
さて本題です。毛利嘉孝著『文化=政治──グローバリゼーション時代の空間叛乱』(2003,月曜社)を読了。ひじょうに気持ちのよい本でありました。毛利さんは『カルチュラル・スタディーズ入門』(上野俊哉との共著、2000,ちくま新書)をはじめとする著書・訳書があり、「カル・スタ」の専門家といっていいのだと思うのですが、「カル・スタ」とはなんたるかをよく知らないまま、なんとなく遠巻きに見ておりました。
この本は、旧来の左翼系社会運動とはまったく異なる「新しい社会運動」が、いま世界中で、同時多発的におこなわれている、その現状を伝えるとともに、それが「政治運動」であるだけでなく、ある意味「文化運動」でもあるということを明らかにしたものです。これまで「政治」にかかわりをもとうとしなかったタイプ(ノンポリといってもいい人たち)が、「面白そう」という感覚で、デモなどにかかわっていく。旧来の見方では理解できず、マスメディアも「不思議な現象」として扱わざるをえなかった彼らの「きもち」に、押しつけがましさを感じさせることなく、ふみこんでいます。
“いまどきの”若者が、軽いノリで社会運動に参加するあり方に希望をいだく著者のスタンスは、もしかするとオプティミスティックにすぎる、と批判されるかもしれません。こうした「新しい社会運動」に実際になにかを変革しうる「実効性」があるのだろうか、という疑問もあるでしょう。
でも、著者はほんとうにオプティミストなのだろうか。いまどきの社会運動に参加している若者たちは、そもそも「実効性」を求めているのだろうか。なにか具体的な「目標」をかかげていたとしても、そしてそれを真剣に求めていたとしても、それにも増して、いまこの時点で自分が社会に感ずる「違和感」を表明することのほうが、彼らにとっては重要なことなのではないでしょうか。
旧来の政治運動が(左であっても右であっても)「歴史の過去を正当化し、未来を収奪する」こと、つまり「時間をわがものとする」ことに心血をそそいできたのに対し、いまどきの社会運動は「いま、この瞬間に、自分の存在するこの空間を奪い取る」ことをめざします。逆にいえば、自分が存在するということの意味が、いやおうなく他者によって規定され、自分の身体が占めるこのちっぽけな空間さえも自分のものにならない、そうした社会にたいする拭いようのない違和感こそが、彼らにとって問題なのです。
少し引用してみます。

……人が自分以外の他者と関係を結んでいく過程で、啓蒙的な言説だけではなく、神的としか、あるいは、身体的としか呼べない世界認識のあり方を要求することについて、もっと真剣に考える必要があると思うのだ。
 新しい運動が、システムの限界における亀裂を示しているとメルッチが言う時、それはある奇跡的な時間の到来を暗示している。その時間とは、論理的な思考から絶えずこぼれおちていく例外的な出来事が、突如としてあたかも必然的に照応していくような瞬間である。この新しい運動は理性に従属することをやめて、きわめて身体的な反応になる。新しい文化=政治運動が、一定の成果を収めつつあるとしたら、ひとつにはそれが身体的な反応に裏打ちされているからである。
 それは、私たちが生きている世界に対する深い理解によるのではなく、私たちがとんでもない世界に生かされていることに対する身体的な嫌悪感によるのだ。この嫌悪感は、フロイトなら無意識と呼んだ領域にしまいこまれていたものだ。私が最近の新しい文化=政治運動に期待しているのは、それがひとつのイデオロギーではなく、この身体的な反応によって動かされているからである。(p.200)

たとえば、「自動車が走る空間」として、だれかがいつのまにか規定した道路を占拠して、そこをダンス会場にすること。「反自動車運動」というもっともらしい名前はついていても、それはむしろ心にわだかまる「ちっぽけな疑問」「どうでもいいような違和感」を、不問に付して無意識の片隅に追いやってしまうことなく、それにたいしてあえてかたちを与え、ことばを与えるいとなみです。それは「政治」というよりも、やはり「芸術」「文化」と名づけたほうがいいような、繊細ないとなみだと思うのです。
毛利さんは今年から東京芸術大学に勤務されていますが、この「文化」の総本山から、これからどんな「運動」が発信されてくるのか、とても楽しみです。[genki]

 

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コメント

なるほど。そういう本でしたか(^^;)。ぼくは「旧世代」の論理や感覚も持ち合わせているようであり、でも、ちょっと飛躍するかもしれないけど、「身体的反応」という言葉につられて思ったのは、いっぽうでたとえばライヴ通いを止めないのは、まさに「今、ここにあること」を理屈抜きで感得できるからなのかな、などとも思ったり。とにかくやっぱりこれは読まないといかんですね。

投稿: beeswing | 2005/12/22 10:45

コメント、どうもです。
きっと、それぞれが「ライヴ通い」したり、思想書を読んだり、ゲンダイオンガクを聴いたり、っていうことが、自己表現であり、芸術であり、メディアであり、運動であり、このどうしようもない社会を塗りかえる営みなんでしょうね。「社会を変える」という意味での実効性はまるでないかもしれませんが、既存の「どうしようもない社会」という容れ物を「ハッキング」して、自分色にカスタマイズしちゃう、ってことが、「文化=政治運動」の真骨頂ではないか、とぼくは理解しました。

投稿: genki | 2005/12/22 11:00

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