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2006/01/31

更新情報20060131:谷口昭弘さんのカテゴリーを追加

谷口さんの書かれたものをまとめて読みたいときは、サイドバーの「カテゴリー」欄の「taniguchi's view」をクリックしてください。

谷口さんご自身のWebサイトはこちら。[genki]

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2006/01/30

クリエーター至上主義でいいのか

教育音楽・中高版』2006年2月号が「コンテンツクリエーターを育てよう」という特集を組んでいます。ネット配信など最近の音楽シーンの激動をうけ、音楽大学はどんな取り組みをしているのかを紹介したもの。国立音楽大学(庄野進副学長)、フェリス女学院大学(三宅榛名教授、秋岡陽教授)、デジタルハリウッド大学(杉山知之学長)という3大学の責任者の談話が掲載されており、興味ぶかく読みました。

各大学それぞれに独自性をうちだしてカリキュラムを構築しているようですが、面白いのは、「すぐれたコンテンツクリエーター養成」という目的にかんしては、各大学ともまったくブレがないことです。
これまで、日本の音楽大学は「クリエーター」よりも「パフォーマー」を育てることを重視してきたのではなかったでしょうか。また端的にいって、クラシック業界では作曲家よりも演奏家のほうが実入りがいいしくみになっています(だって、演奏会のプログラムの大半を占める19世紀以前の音楽は、もう新しく作曲することができないわけですから)。
それがここへきて、とつぜん「すぐれたクリエーターを養成する」といいはじめた──その意識の転換は、どこからきたのか。はたして、そんなに急にハンドルを切ることができるのか。そしてその向かう先に展開される音楽の未来像とはどんなものなのか──そんなことを考えてしまいました。

西洋音楽史というものが、表向き「クリエーター至上主義」でなりたってきたことは、論をまちません。しかし、「表向き」というところが重要で、じつのところ、クリエーター=作曲家をたてまつりながら、パフォーマーにお金が流れるシステムが、20世紀までは揺らぎないものとして機能してきたのも事実です。日本の音楽教育も、その西洋のシステムをそのままうけいれるやり方で、構築されてきました。
ここ数年間の音楽制作のデジタル化と低コスト化、そしてネット配信の普及により、クリエーターが直接リスナーとつながることが容易になりました。これは他のどんな分野にもあてはまることですが、現代は「中間メディア」というものが徹底的に排除されていく時代です。つまり、「クリエーター→パフォーマー→リスナー」という流れの中間に位置するパフォーマーが「必要ない」とされる時代だということです。
他の誰も聴いたことのない音楽を創りだすクリエーター、その音楽の魅力を比類ない技術とカリスマ的人間性によって増幅し公にするパフォーマー、そして研ぎ澄まされた感受性をもってその音楽を審美し、それに経済的に報いるリスナー、という“美しいトライアングル”によって、これまで何世紀も成立してきた音楽の世界が、いま根本的に変わろうとしているようです。

ネット配信は究極、「ひとりのクリエーター→ひとりのリスナー」という1対1のコミュニケーションにまで行き着くでしょう。リスナーは中間メディアであるパフォーマーを廃して、より根源的な音楽の感動に近づくことができる、といえるのかもしれません。でも、それはほんとうに幸福な未来像でしょうか。
この「クリエーター至上主義」は、じつは「メディアは情報の容れものにすぎない」という、ある種素朴な考えにもとづいています。その考えにもとづくかぎり、情報というものは上流にいけばいくほど混りけのない純粋なものになる。ダビングにダビングを重ねたカセット・テープの、音質の劣化みたいなものを考えていただければわかりやすいかもしれません。つまり、「パフォーマー」という中間メディアを廃すれば、リスナーは直接クリエーターから純度の高い情報を得ることができる、というわけです。

でもここには、なにかが欠けている、と思いませんか? 
そう、そこには「公性」というものへの視点がありません。そして、「公性」はどのようにすれば得られるのかといえば、私見ではありますが、その音楽が「パフォーマー」を通して解釈され表現されることによって初めて獲得されるのです。それはたんに、不特定多数のリスナーに向けて演奏する、ということではありません。それよりもむしろ、音楽が、パフォーマーという「メディア」、つまり「他者の身体」をいちど通りぬけてから外に表出されることによってのみ、公性あるいは普遍性が獲得される、ということがいいたいのです(クリエーターがパフォーマーを兼ねる可能性を想定していないわけではありません。その場合にも、パフォーマーがクリエーターとしての自分にたいして、どこまで「他者性」をもちうるかが公性・普遍性の源泉となるでしょう)。そして、最後にリスナーの身体を通して、その音楽の価値は全きものとなるのかもしれません。

「音楽の教育」とは、創作にしても演奏にしても聴取にしても、それぞれの立場において、みずからの経験の底をうがって本質へと迫るような態度を教えることを、目的とするべきだと思います。これまでのやり方で、パフォーマーを育てることに限界があるとするならば、クリエイトされたものにどのようにすれば「公性・普遍性」を付与できるか、ということが真剣に問われねばなりません。
ここでとりあげられた3大学の意欲的なとりくみに、他の大学がどう反応するか──それこそが問われているのだと思います。[genki]

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onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その6──Listener-Friendly 20th-Century Music?〈2〉

 またもや日々のあれこれに紛れて、日数が空いてしまいました。沼野です。
 前回は「現代音楽はやさしすぎる」というテーゼをたててみましたが、このときに「現代音楽」という語で私が主にイメージしていたのは、わりあいと最近の日本の作品です。
 ともかく現代音楽もどきというか、一見すると現代的な「なり」をしていながらも、その実、中身はあまりに古色蒼然たる音楽が多すぎるわけで、このあたりのギャップに無自覚な創作に関しては、今後積極的に批判していく必要があると思っています。やっぱり「やさしい」作品というのは、つまらないので。
 ……じゃあ、どういう音楽が「難しい」のかと問われる人もいるでしょうが、たとえば最近の日本でいえば、三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」のシリーズは難しくて面白い。もちろん、作曲の仕掛けや手順といった点ではむしろ単純きわまりないんですが、そこから生じる現象と、彼自身の擬似民俗学的なスキームの重なり具合は、相当にいい線いってると思います。

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 さて、私が休んでいる間に、今度は谷口さんから「聴衆にやさしい」現代音楽について、問題提起がありました。これはやはり私にとっても、関心のあるところです。そのレコード屋では、どういった音楽がListener-Friendly Twentieth-Century Musicのカテゴリーに収まっているのか分かりませんが、ともかく調性的で拍節的で旋律のはっきりしたものなのでしょう。
 ほかでも何度か書いたことがありますが、 Listener-Friendlyな現代音楽という場合、主に以下の3つの傾向に分類できると思います。

 〈1〉後期ロマン派的な作品
 〈2〉映画音楽的な作品
 〈3〉ミニマル音楽の類

 これらはもちろん、相互に重なりあったりするので、3つにきちんと分かれているわけではありません。特に「映画音楽」というのは我ながらひどい言い方で、これでは何でも入ってしまうわけですが、とりあえず雰囲気としては分かっていただけるのではないかと。駅の構内でよく「映画音楽名曲集」なんていうCDを売ってますが、その中に入っていそうなタイプの音楽です。
 3つとも、確かに「聴き手にやさしい」音楽ではあるわけですが、じゃあこれらが聴き手に支持されているかといえば、またそれはちょっと違う気がする。そもそも〈1〉と〈2〉は「本家」あるいは競合分野が激しくて、わざわざこのスタイルを「現代音楽」という枠組みで消費しようとは思わない人が多い。つまり〈1〉ならばマーラーで十分だし、〈2〉ならばポピュラー音楽がある。かろうじて〈3〉は「現代音楽」的ですが、もともと様式的な発展性が少ないので、近年のアダムズやライヒのように、オペラにでもするしかないという状況でしょう(もっとも私は彼らのオペラはきわめて重要な作品群だと思いますが)。
 してみると、Listener-Friendly Twentieth-Century Musicは、意外に人気がないとも言える。もちろんアメリカ国内の消費という点ではやや違った側面があるようにも思いますし、またどういったスタイルであれ良いものと悪いものはあるわけですが、しかし一般論としていえば、こうした現代音楽はフレンドリーなのに支持されない。ここらへんが「現代音楽」の面白いところです。
 このあたり、美術ではどういう対応関係になるのか。例えば村上隆みたいな戦略というのは、音楽ではとれないんでしょうか? 日本人独特の「リズム感のなさ」を逆手にとった、スーパーフラット・ミュージックとか……。その程度の開き直りやユーモアがあると、少しは現代音楽シーンも面白くなるんですが、みんな真面目すぎてどうにもならない。その意味でも三輪さんの「民話」は、笑えるという点で貴重です。[沼野雄司]

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2006/01/28

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その5──Listener-Friendly 20th-Century Music?〈1〉

■現代音楽は聴きやすい(?)

 私がまだフロリダに住んでいたときのことです。地元のBordersという書店に行きました。ここは書籍の他に音楽CDや映画のDVDなども置いてある複合店といえるのですが、ふとCDのセクションに面白い言葉をみつけました。
 お勧めCDの紹介を説明したプレートのようなものだったのですが、そこに「Listener-Friendly Twentieth-Century Music」とあったのです。これは「聴き手にやさしい20世紀音楽」といった訳になりますでしょうか。
 私がこの店を訪れたのはすでに21世紀に入ってからだったのですが(おそらく2002年か2003年)、おそらくその紹介された作品も、それほど作曲されてから年月のたっていない、いわゆる「現代音楽」に分類される作品だったと思います。
 この「聴き手にやさしい20世紀音楽」という言葉は、2つのことを考えさせてくれます。そのひとつは「20世紀音楽」と分類される音楽は、一般的に「聴き手にやさしくない」と考えられているということです。ですから「聴き手にやさしい」という言葉は、他の20世紀音楽とは違うぞ、という商品のアピールになるのでしょう。
 もうひとつは、21世紀に入っていても、この紹介されたCDが「20世紀音楽」という文脈でとられているということです。もちろん、私がアメリカにいたのは2003年まででしたから、21世紀そのものの歴史がまだ浅く、「20世紀音楽」という書き方に依然大きな意味があったということも充分考えられます。しかし日本で50年以上前に作曲された、不協和音の多い音楽が以前「現代音楽」とよばれることと、こ
の「20世紀音楽」という呼び名には、なにかしら類似した感覚を感ずるのも事実です。
 さて、21世紀も6年めに入りました。21世紀の音楽においても、新しい作品のいくつかには「聴き手にやさしい」という前置きが必要とされていくのでしょうか。
 みなさんはどのようにお考えですか?[谷口昭弘]

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onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その4

その3」から少し間が空いてしまいましたが、ここに強力なパネリストが登場! アメリカのクラシック音楽を中心に研究されている谷口昭弘さんです。さて、どのような視点を提示してくださるか、楽しみです。[genki]

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2006/01/25

バロックから初期古典派までの音楽の奏法

昨年(2005年)10月に刊行した橋本英二著『バロックから初期古典派までの音楽の奏法』が評判いいです。著者はシンシナティ大学名誉教授で、いまもシンシナティ在住。長年アメリカを拠点に教育家、演奏家として活動されてきた方です。本書は、バロック音楽から初期古典派までの音楽を演奏するさいに留意すべきさまざまな事項を、J. S. バッハ、F. クープラン、ラモー、クヴァンツ、テュルク、C. P. E. バッハ、L. モーツァルトなどの当時の教本の記述にもとづきながら、みずからのバロック音楽研究の集大成として書き下ろした記念碑的労作です。大部な本ですから、読みとおすのはたいへんですが、記述は、演奏家ならではの具体性にとむもので、字引のように必要な箇所だけ参照する、という使い方も可能です。
最近はモダン楽器の演奏家でも、バロック音楽を演奏するケースが増え、しかもそのさいには時代様式をふまえた解釈をふつうにもとめられるようになってきています。ぜひこの機に、本書で勉強されてはいかがでしょうか?[genki]

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2006/01/23

『音楽ビジネス・自遊自在』のblogが登場

『音楽ビジネス・自遊自在』およびその続編である『音楽著作権と原盤権ケーススタディ』の著者であるKプロデュース・ジャパン代表・鹿毛丈司さんのblogが始まりました。
2002年に刊行した前作はすでに4刷、2004年の続編もこのたび重版が決まり、「わかりやすい音楽ビジネス指南書」として、定着しつつあります。鹿毛さんの持ち味は、「だれにでも実感がもてる卑近な例をもちいて、とことんわかりやすく音楽ビジネスを解説する」というスタイルと、「自分も成功できるかもしれない、という夢を与えてくれる」というところです。じつは百戦錬磨の業界人がひそかに買って勉強しているという説もあり──。
次作の構想も着々と進んでいるようです。ぜひいちど訪問してみてください。[genki]

 

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2006/01/13

モーツァルト自筆の主題目録

数日前のエントリでモーツァルトについて触れましたが、トラックバックを貼ってくださったyasuさんのblogによれば、大英図書館(British Library)がオンラインで「モーツァルトの日記」を公開している、とのことで、さっそくのぞいてきました。
ふつうの「日記」ではなく、モーツァルトが1784年2月から死の直前の91年11月まで、作品を完成するたびにみずから記録していった主題の譜例付き作品目録──『全自作品目録(Verseichnuess aller meiner Werke)』です。
いや、これはかなりすごいです。原史料が目で見られるのもすごいけど、それを「見せる」仕掛けが凝ってて、なんというか「ギミック」的にも楽しめます。
まず、問題の史料の表紙があらわれますが、ドラッグ&ドロップの操作で、ページを繰っていくことができます。ここで注意。(きっとコンピュータのスペックにもよるんでしょうが、少なくとも小生の環境では)あんまり早くはめくれないのです。ゆっくりと注意深く──そう、本物の古書をひもとくときのように(!)──めくっていくと、どういう仕掛けになっているのかわかりませんが、ほんとうにページを繰るような感覚で、次のページがあらわれます。楽譜が細かくて読みづらいな、と思ったら、右下の「Magnify」ボタンをクリック。すると、ルーペがあらわれ、ご希望の箇所を拡大表示してくれます(これもドラッグ操作で移動させることが可能)。その曲が聴いてみたいと思われたかたは、「Audio」ボタンをクリック。すると、そのページに記載されている作品の一覧が表示され、ひとつひとつをクリックすると、音楽が再生される(ただし、おそらくMIDIで演奏させたピアノの音色)。「Text」ボタンをクリックすると、そのページに記載された作品についての解説が読める──と、なんともいたれりつくせりのサービスなのです。
こういうことで、「モーツァルトの謎」がすべて解きあかされてしまうわけではありませんが、作曲家とその音楽が身近になることはたしかで、これからもどんどんやってほしい、と思います。

ちなみに、今朝のNHKニュースでも、「モーツァルトの死後、コンスタンツェが(あろうことか)2つに切りはなして、別々の人物に売っぱらった自筆楽譜を、大英図書館が買いとって1つにつなげた」と報じていましたっけ(もちろん、こんな表現ではありませんが)。大英図書館、がんばってます。
yasuさん、貴重な情報をありがとうございました。[genki]

◎追記
・小生が直接担当した書籍ではありませんが、一昨年からずっと手がけてきたシリーズ「作曲家◎人と作品」の第1期(全12巻)をしめくくるものとして昨年9月に刊行された西川尚夫著『モーツァルト』をご紹介しておきます。シリーズのなかでも評判の高いもののひとつで、10年単位のロングセラーになるのではないかと感じさせる本格的な内容です。[2006/01/13]



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2006/01/11

クラシック音楽がブームです?:2006/01/09・NHK総合『クローズアップ現代』

「いま、クラシック音楽がブームです!」──“ザ・NHKの良心”国谷裕子アナウンサーの気持ちのよい断言で始まったのは、1/9の『クローズアップ現代』。「え、ホントに? いったいどこで?」とおもわず画面に向かって問いかけてしまいました(でも、昨年10月にも(いまや地に落ちた)韓国のクローン技術について、同じような口調で伝えていたっけ)。ちなみに「大好き! モーツァルト」という特集でした。
クラシックがブームなのかどうか、小生にはわかりません。仕事柄、わかってなきゃいけないような気もしますが、なんというか、われわれとはまったく関係のないところで起こっている出来事のような感じがします。でも、知人によれば、ある在京オーケストラの定期公演には、「こんなに毎日毎日いろいろな場所で演奏会があるのに、どうして?」っていうほど、最近はお客さんが入っているそうだし、あながちデタラメでもないのかもしれません。
でも、いっぽうでは「クラシック」と「ブーム」ということばが結びつくことに、そこはかとない違和感を感じることもたしかです。
友人どうしの会話で、「いまオレ、クラシックにハマってんだ」と話す若者の姿が目に浮かぶなあ。これって、違和感ありませんか、そうですか。べつにいいんですけど……。
この場合、「クラシック」ということばをたとえば、「平原綾香」におきかえてもいいんですけど、この「クラシック」と「平原綾香」がおきかえ可能、っていう時点で、すでに「クラシックは終わっている」と思ってしまうわけです。だって、むかしは「音楽鑑賞」といえば、ジャズでもロックでも演歌でもなく、クラシックのことだけを意味していたわけですから。
音楽大学の作曲科で教えるある先生が、「最近の学生は、ベートーヴェンが交響曲を何曲作ったか知らないんだよ」と嘆いていましたが、そうか、クラシックを知らなくても、現代音楽は作曲できるのか、と妙に感心してしまいました。
そうだ! 「クラシックを知らずに現代音楽は作曲できるのか(していいのか)」を、次の「onblo talk series」のテーマにしようかな。[genki]

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2006/01/10

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その3

さてさて、面白くなってきました。沼野さん、書き込みをありがとうございます。そして、すぐさま反応してコメントを投稿してくださったおふたりにも感謝します。

沼野さんが新たに提示してくださった「ほとんどの現代音楽は(残念ながら)むずかしくない」という視点は、これまた刺激的ですが、ある意味ひじょうに納得できるところがあります。
たとえば、最近では「アルファ波」だとか「癒しの音楽」だとかいわれて、とにかく「快い音楽」の代表格とされているモーツァルトを考えてみましょう。現代音楽のような「不快な音響」の対極にある、「ドミソ」でなりたっているモーツァルトの音楽は「むずかしくない」でしょうか?
表面的にはそうかもしれませんけれども、小生にとっては、モーツァルトほどむずかしい音楽はない、というのもまた事実です。「天衣無縫」という言葉をそのまま音にしたかのようなかずかずの傑作を、はたしてわれわれはほんとうに「理解」できているのだろうか、と考えてしまうのです。そして、その「謎」の深さゆえにこそ、モーツァルトの音楽は時代を超えて聴きつづけられる「永遠性」を獲得しているのではないか、とさえ思います。
それに比して、現代音楽は、多くの人がなんとしても解き明かしたいと願うにたる「謎」を、ひとびとに提供しているだろうか──これが、沼野さんの問いかけであったのではないかと思うのです。

「むずかしさ」ということにくわえて、いただいたコメントからも、「芸術」「美」「快」など、検討するにあたいするさまざまなタームがでてきたように思います。あまり議論の幅をせばめず、このまま進んでみたいと思います。[genki]

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2006/01/07

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その2

 どうも、久しぶりの沼野です。

 あまりに原稿を書かない私に業を煮やし、ついに木村さんが対話の舞台を設定してくれました(拙著を引用してくださる気遣いに涙・・・)。いつもお世話になりっぱなしという気がしますが、「音芸」復活へ向けて、こちらもさっそくリングにのりたいと思います。

 さて、現代音楽はむずかしいか、という問いですが、私にとって、この答はきわめてはっきりしています。

 答:大部分の現代音楽はむずかしくない。むしろ、どうにもやさしすぎる。

 この「やさしすぎる」という語は、情報量が少なすぎる、ナイーヴすぎる、と言い換えても構いません。そもそも私は、現代音楽の多くがなぜつまらないのか、なぜ無力なのか、といえば、あまりにそれが「やさしすぎる」からだと考えます。

 一般には、現代音楽が聴衆を無視して難しくなりすぎたために、現代音楽は力を失ってしまった、というストーリーが語られがちです。しかし、おそらくこれは逆で、やさしすぎるから、誰も相手にしてくれないのではないでしょうか。もちろんこうした事態は単に作曲家の責任に帰することではなく、創作をめぐる大きな状況の中で生じたことだと思うのですが、ともかく現代音楽というジャンルをもうちょっと盛り上げるためには、まずは「ほとんどの現代音楽はやさしすぎる」という認識から出発しておきたいんです。

 一般に「現代音楽がむずかしい」という時、この「むずかしさ」は、たいていは単に「音の不快さ」に起因するものです。妙な間を挟んで変な音程や和音が連続する作品を耳にした時に、→どうしてこんなに不快な音を書くのだろう→さっぱり意味分からん→「むずかしい」、となる。実はこの場合「むずかしい」は「つまんない」の同義語にすぎないし、面倒だから思考停止するけんね、というサインでしかない。

 でも、なぜこれまで「つまんない」ではなく「むずかしい」という表現の方に針が振れていたかといえば、それは漠然とした作曲家への、そして芸術活動への信頼があったからです。下世話なたとえを使えば、東大生がいくら単純な計算を間違えても「でも本当は頭いいんだろうなあ」と考えてくれる、優しい庶民の感覚に近いでしょうか。作曲家にとって、これはとてもありがたいことだったと思います。

 問題は、拙著でも述べたように、68年以降の状況の中では、この優しい庶民感覚が徐々に薄れ、今や消えかかっていることです。この時、聴き手が勝手に付与してくれた「むずかしさ」は、するすると剥げ落ちて、作品自体が本質的に持っている「むずかしさ」の質が問われはじめる。しかし、言うまでも無く、ほとんどの現代作品はこうした次元でのむずかしさなど持っていないのです。

 私が現代音楽に求めているのは、本質的に楽曲がなにがしかの問題を孕んだゆえの「むずかしさ」です。でも、なかなかこれを見出すことは「むずかしい」んですね。

 ・・・とだいぶ長くなったので、まずはここら辺で![沼野雄司]

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2006/01/06

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その1

新春企画(?)として、「onblo talk series」なるものを始めてみたいと思います。ひとつのテーマについて、複数のライターにより、不定期かつ断続的に(つまり忘れたころに)掲載する「blog討論」シリーズです。その間にもほかの記事が割りこんでくると思いますので、まとめて読みたいときは、サイドバーの「カテゴリ」のなかの「talk series」をクリックしてください。

さて、第1弾は「現代音楽はおもしろい!」。最後の「!」は「?」でもよかったんですが、まあここは景気よく断言してしまいましょう。
なぜ「現代音楽はおもしろい」のか──それは小生にもよくわかりません。むしろその答えが知りたい、という気持ちから、お題を選びました。
逆に「現代音楽はおもしろくない」というひとは、少なくないと思われます。そのひとたちはどうしてそう思うのでしょうか。「調性感が希薄である(あるいは、ない)ため、むずかしい」からか、あるいは閉じたサークルのなかで似たような音楽が再生産され消費されるいわゆる「タコツボ化」のためか、そのほかにも理由はいくらでもありそうです。
そのなかの「現代音楽はむずかしい」というテーゼについて、ひとつの文章を引用させていただきます。

……経済資本ではなく、知的資本をもつ人びとに寄生したのが、いわゆる「現代音楽」とよばれる、新しい創作を担う作曲家を軸にして形成される音楽であった。この音楽は「知的な階級制」を担保するものであるから、庶民のレヴェルで理解できるようなものであってはならない。庶民や似非貴族のブルジョワが楽しめるようなものは、知性の証にならないのである。たんに美しいこと、たんに快いことは禁忌とされ、逆に新しい知的刺激を与えてくれるような理論や構造を備えていることこそが、これらの音楽にとっては重要となった。

──沼野雄司『リゲティ、ベリオ、ブーレーズ──前衛の終焉と現代音楽のゆくえ』p.173

ひじょうに挑発的な文章ではありますが、小生自身、この文章を読んで「ドキッ」としたこともたしかです。「多くの聴衆に理解できないような音楽だからこそ、愛好する」という面があるのではないか、ということですね。
逆にいえば、この視点をくつがえすにたる「おもしろさ」を獲得していないような「現代音楽」は、けっきょくはつまらない音楽であるわけで、「これはのっけから、やばいところに足をつっこんじゃったな」という気もしていますが、かまわずに進めましょう。

あんまり漠然としても話がしづらいので、話題を限定して、まずは「現代音楽はむずかしいか」──とりあえず、ここから議論を始めてみたいと思います。[genki]

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2006/01/01

あけましておめでとうございます

昨年11月から開始したこのblogですが、2カ月のあいだに、それなりに記事も増え、アクセスもいただけるようになり、かたちになってきました。今年はさらに内容を充実させ、また多くのかたに発信者として協力していただきたいと思っています。これからもぜひごひいきに、お願いいたします。

最初の記事にも書いたことですが、このblogは音楽之友社が以前刊行していた雑誌『音楽芸術』の精神を受け継ぎ発展させて、「同時代の音楽」を多くの方々と考えるフォーラムに育てたい、という思いから始まったものです。いまはそこからもう少し踏みこんで、願わくば当blogを母胎として『音楽芸術』を復活させたい、という夢がふくらんでいます。「おいおい、そんな大それたこといっていいのかよ」とつっこむ声も聞こえてきそうですが、まあ「初夢」みたいなものですから、ここは思い切って書いておこうと思います。
赤字つづきで休刊に追いこまれた雑誌を復活させるのは、いろいろな意味で容易なことではありませんし、いまの時代、紙のメディアを復活させてどうする、という意見もあるかもしれません。版元は音楽之友社という「老舗」でなければならないのか、という議論もあるでしょう。できることなら、そうしたさまざまな議論を、ぼくはこの場をつうじてしていきたいと思っています。
『音楽芸術』というのは、ひとつの“契機”にすぎません。むしろ「ongei」という小文字で表されるひとつの気分と、そこから喚起されるさまざまなイメージを掬いとって、それらをむりやりひとつの方向へ集約する愚をおかすことは注意深く避けながら、コミュニケーションそのものがメディアとなるようなあり方を、読者のみなさんといっしょに模索していきたいと思います。
沼野雄司さんをはじめとする協力者のかたがたにも、いままで以上に登場していただきたいと考えています(これって、原稿催促? ですね)。演奏会の記録や本の紹介、そして日々の雑感だけでなく、なんらかのテーマを決めて公開討論をすることも考えています。そのときには、ぜひみなさんにもご参加いただければと思っています。

というわけで、今年もどうぞよろしくお願いいたします。[genki]

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