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2006/01/30

クリエーター至上主義でいいのか

教育音楽・中高版』2006年2月号が「コンテンツクリエーターを育てよう」という特集を組んでいます。ネット配信など最近の音楽シーンの激動をうけ、音楽大学はどんな取り組みをしているのかを紹介したもの。国立音楽大学(庄野進副学長)、フェリス女学院大学(三宅榛名教授、秋岡陽教授)、デジタルハリウッド大学(杉山知之学長)という3大学の責任者の談話が掲載されており、興味ぶかく読みました。

各大学それぞれに独自性をうちだしてカリキュラムを構築しているようですが、面白いのは、「すぐれたコンテンツクリエーター養成」という目的にかんしては、各大学ともまったくブレがないことです。
これまで、日本の音楽大学は「クリエーター」よりも「パフォーマー」を育てることを重視してきたのではなかったでしょうか。また端的にいって、クラシック業界では作曲家よりも演奏家のほうが実入りがいいしくみになっています(だって、演奏会のプログラムの大半を占める19世紀以前の音楽は、もう新しく作曲することができないわけですから)。
それがここへきて、とつぜん「すぐれたクリエーターを養成する」といいはじめた──その意識の転換は、どこからきたのか。はたして、そんなに急にハンドルを切ることができるのか。そしてその向かう先に展開される音楽の未来像とはどんなものなのか──そんなことを考えてしまいました。

西洋音楽史というものが、表向き「クリエーター至上主義」でなりたってきたことは、論をまちません。しかし、「表向き」というところが重要で、じつのところ、クリエーター=作曲家をたてまつりながら、パフォーマーにお金が流れるシステムが、20世紀までは揺らぎないものとして機能してきたのも事実です。日本の音楽教育も、その西洋のシステムをそのままうけいれるやり方で、構築されてきました。
ここ数年間の音楽制作のデジタル化と低コスト化、そしてネット配信の普及により、クリエーターが直接リスナーとつながることが容易になりました。これは他のどんな分野にもあてはまることですが、現代は「中間メディア」というものが徹底的に排除されていく時代です。つまり、「クリエーター→パフォーマー→リスナー」という流れの中間に位置するパフォーマーが「必要ない」とされる時代だということです。
他の誰も聴いたことのない音楽を創りだすクリエーター、その音楽の魅力を比類ない技術とカリスマ的人間性によって増幅し公にするパフォーマー、そして研ぎ澄まされた感受性をもってその音楽を審美し、それに経済的に報いるリスナー、という“美しいトライアングル”によって、これまで何世紀も成立してきた音楽の世界が、いま根本的に変わろうとしているようです。

ネット配信は究極、「ひとりのクリエーター→ひとりのリスナー」という1対1のコミュニケーションにまで行き着くでしょう。リスナーは中間メディアであるパフォーマーを廃して、より根源的な音楽の感動に近づくことができる、といえるのかもしれません。でも、それはほんとうに幸福な未来像でしょうか。
この「クリエーター至上主義」は、じつは「メディアは情報の容れものにすぎない」という、ある種素朴な考えにもとづいています。その考えにもとづくかぎり、情報というものは上流にいけばいくほど混りけのない純粋なものになる。ダビングにダビングを重ねたカセット・テープの、音質の劣化みたいなものを考えていただければわかりやすいかもしれません。つまり、「パフォーマー」という中間メディアを廃すれば、リスナーは直接クリエーターから純度の高い情報を得ることができる、というわけです。

でもここには、なにかが欠けている、と思いませんか? 
そう、そこには「公性」というものへの視点がありません。そして、「公性」はどのようにすれば得られるのかといえば、私見ではありますが、その音楽が「パフォーマー」を通して解釈され表現されることによって初めて獲得されるのです。それはたんに、不特定多数のリスナーに向けて演奏する、ということではありません。それよりもむしろ、音楽が、パフォーマーという「メディア」、つまり「他者の身体」をいちど通りぬけてから外に表出されることによってのみ、公性あるいは普遍性が獲得される、ということがいいたいのです(クリエーターがパフォーマーを兼ねる可能性を想定していないわけではありません。その場合にも、パフォーマーがクリエーターとしての自分にたいして、どこまで「他者性」をもちうるかが公性・普遍性の源泉となるでしょう)。そして、最後にリスナーの身体を通して、その音楽の価値は全きものとなるのかもしれません。

「音楽の教育」とは、創作にしても演奏にしても聴取にしても、それぞれの立場において、みずからの経験の底をうがって本質へと迫るような態度を教えることを、目的とするべきだと思います。これまでのやり方で、パフォーマーを育てることに限界があるとするならば、クリエイトされたものにどのようにすれば「公性・普遍性」を付与できるか、ということが真剣に問われねばなりません。
ここでとりあげられた3大学の意欲的なとりくみに、他の大学がどう反応するか──それこそが問われているのだと思います。[genki]

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