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2006/02/24

波多野睦美+つのだたかし「古歌イタリア」(2006/02/24@ハクジュホール)

ひさしぶりのハクジュホール、それも最前列のど真ん中で音のシャワーを浴びてきました。極楽ゴクラク。
ルネサンスからバロックまで、イタリアの古歌の花々を愛でながら、そぞろ歩くような趣のコンサートでした。

波多野さんとつのださんの音楽は、聴いている者の身体を──なんと表現したらよいか──そう、たとえば調律してくれるようなところがあります。
これは、たんなる比喩ではありません。コンサートが始まるまえの緊張(これもむしろ心地よいものですが)が、リュートの静かな前奏によって少しずつほぐされてゆく。そして、そこに波多野さんの声が聞こえてきて──。
以前べつの場所で「細胞のすきまを埋めてくれる音楽」と書いたことがありますが、ほんとうにそんな「フィジカル」な力が、彼女の歌にはあります。
歌がまず身体の中に滑りこんで、澱んでいる場所、堅くなっている場所を探りだす。聴き手は「ああ、少し肩に力が入っているな」などと、身体に入ってきた音の流れが滞る場所を点検していきます。
歌に助けられながら、自分でひとつ、またひとつと、ストレスのたまった部分を意識し、凝りをほぐしてゆく。すると、次第しだいに、身体が音楽に「共振」してゆきます。
調律が終わったとき、ぼくたち聴き手の身体は、あたかもよく調整された楽器のように響きはじめるのです。そのときの心地よさ! 聴き手全員がそれぞれユニークな楽器となり、文字どおり、ホール全体が共鳴する。これが、ライブで音楽を聴くことの醍醐味でなくてなんでしょう!

ルネサンス期の歌はとくに、ころころと転がる音が、まるで熟練したマッサージ師の手のように、小気味よく身体を刺激してくれます。バロック期に入ると、その刺激が少し人工的になります。癒しを超えて、快楽を積極的に生み出すために、考えぬかれた音の仕掛け。
「癒し」ということばは、あまり好きではありませんが、このふたりの音楽には、音楽がダビデ王の昔からひそかに伝える、「秘技」のような力がたしかに備わっている、と感じました。[genki]

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コメント

行けずに残念でした。「調律が終わったとき、ぼくたち聴き手の身体は、あたかもよく調整された楽器のように響きはじめるのです。」というのは、まさにおっしゃる通りで、ライヴを聴く楽しみというのはそういうところにもあるのでしょうね。クラシックのコンサートって、ロックみたいにロビーでグッズ販売しているわけじゃないし、比較してしまうと「自分があったまりにくい」ところがあるなあと思っていたんですが、自分の身体も一緒に調律するという考え方は、ひとつの儀式として共感を呼ぶかもしれませんね。
ところで、僕のweblogにリンクをはっていただいてありがとうございます。で、「イギリス音楽研究家」という大層な肩書きが付いてしまっているんですけれど、お手数ながらトルツメしていただけませんでしょうか。僕はイギリスに関しては、もう看板を下ろしていますし、研究なんていう大それたものじゃないのです。僕のは「好きで聴いていたら仕事になっちゃった」っていう、ごっつぁんゴールみたいなもんですからねえ(笑)。

投稿: at.yamao | 2006/02/25 07:12

肩書きの件、了解です。山尾さんもどっかで書いてらっしゃいましたけど、ドリコムRSSって機能してるんだかどうだかわからんところがありますね。リンクを増やそうかどうするか、考え中です。

「調律」については、ぼく自身はずっとコンサートに行ったときの「儀式」としてやってきたことですが、beeswingさんが「自分は静寂恐怖症なので、クラシックのコンサートには行けません」とおっしゃっていたので、「それなら、逆に体をほぐしにいく」と考えたらいいのでは? と思って、書いてみました。

投稿: genki | 2006/02/25 07:36

さっそくありがとうございます。お手数でした。
実は今日、とあるコンサート(室内楽)に行ったのですが、その演奏とまったく意見が合わず(笑)ぼんやりしながら「身体の調律(というか音律でしょうか)」について考えていました。コンサートホールというのは、地下鉄と双璧で考え事をするには最適です(笑)。
で、ヨガの先生だったかが「人はみんな自分の身体の中に<芯>があって、まずそれを意識の中で感じられるかどうか。感じたらその<芯>をぶらすことなく、<芯>にエネルギーをあてたり<芯>がエネルギーを吸収したりすることを考えながら、身体を動かすとよい」というようなことを言っていました。これを応用すれば「身体の中に音叉のようなものを感じ、それに共鳴する音楽なのかどうかを感じ取る」ということもアリだなと思いますね。「身体をほぐす」って、そういうことなのかも。音響ロハス(笑)。うーん、ポーリン・オリヴェロスあたりが言っていそうなことですけれど、そもそも西洋音楽起源のムジカ・フマーナなんかも、どこかでそういう考え方があるような気もします。「天上に竪琴があって、その響きに人間の感覚と肉体が反応し、作曲が可能になる」みたいなこと。ちょっと方向を間違えると、危うい電波系の人になっちゃうような気もしますが。

投稿: at.yamao | 2006/02/25 18:49

話が深みにはまってきましたね(笑)。onblo talk seriesの議題にしたいくらいの話題です。
もちろん、「身体の調律こそが音楽の目的」とまでいいきってしまうつもりはありませんが、これまでどうしても受動的な立場におかれていた「聴き手」の、演奏への積極的参加ということが、この考えによって理論づけられるような気もします。つまり、「自分が楽器だ」と聴き手が意識することで、演奏がよりよく響くのではないか、という視点。
あまり合目的的(噛みそうだな、この言葉)に考えると、やっぱり危険だとは思うのですが……。
ただ、聴き手の身体を調律することもまた、演奏家のやるべき仕事だ、ということは、はっきりいってもよさそうですね。自分たちはよい演奏をすればよい、それを理解できるひとだけが理解すればよい、というのは、ちょっと独善的な考えといえるかもしれません。

投稿: genki | 2006/02/25 20:43

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ダヴィンチの時代からモンテヴェルディへ 演奏:波多野睦美、つのだたかし 会場:ハクジュホール 2006年2月24日 つのだたかしがプロデュースする古楽演奏会シリ [続きを読む]

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