onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その10──現代音楽と映画音楽〈4〉
沼野です。またもやずいぶんと間が空いてしまい、申し訳ありません(いつもこればっかりですが……)。
2週間くらい前、サッカーW杯のときにカメルーン・チームが滞在して有名になった九州の中津江村で、純金の鯉が盗まれるという騒ぎがありました。おそらくこの鯉は、竹下政権下の「ふるさと創生1億円プレゼント」の産物ですよね。あのときに1億円の使い道が思いつかず、純金買ったり、「金のなんとか」を作った自治体はけっこうたくさんあった気がします。
このニュースを聞いて思い出したのが、《モーゼとアロン》でした。いや、正確にいえば逆で、今年に入ってDVDが発売されたストローブ=ユイレの映画『モーゼとアロン』に出てくる「金の牛」を見て、あの竹下政策をひさびさに思い出したところだったんです。やはり、出エジプト記の古代から現代日本にいたるまで、金の魔力というのは人類を翻弄してきたわけですね。してみると中津江の鯉盗難も、偶像崇拝を禁じた神の怒りという可能性もあります(ないか)。
シェーンベルクのオペラ《モーゼとアロン》では、神の表象を頑なに禁じるモーゼには「語り」が、ときには現世的な官能をも是とするアロンには「歌」が与えられています。いまさら私がいうまでもないことですが、これはすごいアイディアというほかない。しかしいっぽうで、オペラ全体は密度の濃い音楽が切れめなく続いているわけで、作品をメタレベルで考えるならば、シェーンベルク自身の仕事(作曲)はモーゼに断罪されかねない、アロン的な役割をになっているともいえます。
ただし、ここで問題になるのが、テキストのみの第3幕です。現在のシェーンベルク研究ではどういう結論になっているのか知らないのですが、ともかく作曲はなんらかの理由で中断されて、短いテキストのみが残された。ストローブ=ユイレの映画でも、ここは横たわるアロンの前でモーゼがただ語って、もう素晴らしくあっけなく、ぷっつりと映像が途切れる。この第3幕に入ると、やはりドキッとするんですね。音楽の作用による遠近感がいっきに消えうせて、ゴロっとした生のリアリティが前面に突出する。とりわけ『モーゼとアロン』の場合には、他の映画と異なり最初からずっと音楽が鳴っているわけですから、この第3幕に入ったときの違和感と衝撃には格別のものがある。
これを観たときに、音楽は映像にフィクショナルな性格を与えるのだということに、あらためて気づかされたんです。一般に、映画音楽の役割は、映像のリアリティを基本的には補完するものだと考えられているように思いますが、じつはむしろ映画音楽はリアルを阻害するものであり、もっといえば「ウソの印」なのだと。テレビのニュースに音楽がないことを思えば、これはあたりまえともいえるんですが、ここから考えることがいろいろありました。
どうも、「なぜ映画音楽はいまだにオーケストラなのか」という問いから離れてしまったようでもありますが、しかしいっぽうで、その答えの鍵のひとつがここにあるような気もします。また、これはむしろ舞踊音楽の歴史という点からみるべきなんでしょうが、もっと新しいトピックスでいえば、なぜフィギュア・スケートの音楽はほとんどオーケストラで、でもエキシビジョンになるとポップスが多くなるのか、という問にも突き当たります。あっ、ここにも「金」メダルが……。
うーん、せっかく谷口さんが映画音楽の発端のところから歴史的な問題提起をしてくださったのに、またしても思いつくまま、変なところに話題がとんでしまいました。あまりの無責任を反省しつつ、次回は軌道修正して、ちゃんともとに戻るべく努力したいと思います。今回は番外編ということでどうかお許しを……。[沼野雄司]
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コメント
沼野さん、投稿どうもです。
フィギュア・スケートの競技では、「ヴォーカルもの」は禁じられているそうですね。なんでも、「審査員の歌詞の理解度」が採点に反映してしまうのを防ぐため、とか。
末節のことで、失礼しました。
投稿: genki | 2006/02/27 19:04