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2006/02/13

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その9──現代音楽と映画音楽〈3〉

谷口です。

前回の私の投稿は、問題をいろんな方向に拡散させたようです。議論を収束させようとは考えていなかったぶん、焦点がなくなってしまいましたが、はからずも「現代音楽」という言葉からいろんな議論が可能であることを、自分なりに実感できたようにも思っております。

さて沼野さんのご投稿、映画音楽について私も乗ってみることにしてみました。まず、「なぜオーケストラなのか」ということを私なりに考えてみます。手もとにある映画音楽の本もいくつかのぞいてるんですが、いろいろな要因が考えられそうです。

(1)ヴォードヴィル小屋でサイレント映画が上映されたことがあった。
(2)映画の技術が発展していたころ、人々が慣れ親しんでいたのがクラシック音楽の響き(含オーケストラ)であった。
(3)さまざまな編成がサイレント映画の伴奏をおこなったが、大きな劇場ではオーケストラ(ピット・バンド?)を使っていた。
(4)そして、せっかくトーキーを見るなら、大オーケストラの伴奏がいいという声があがった。
(5)ミュージカル映画が初期トーキー時代に流行した。
(6)スタイナー/コルンゴルド/ニューマンの成功により、シンフォニックなスコアが商業的に成功することが証明されて、それが「当然」のように引き継がれた(1960年代後半から『スター・ウォーズ』までの紆余曲折[うよきょくせつ]を経ながら)。

とりあえず、こんな感じで考えております。沼野さんはどのようにお考えですか?

形式は、私もなかなか難しい問題だと考えています。そもそも音楽だけで「自律した形式」を使わないほうが映画にはよいかもしれないからです(というか、ソナタ形式やロンドが映画にそのまま使われているという例を私は知らないのです。無教養ですいません。ディズニーの『ファンタジア』やオペレッタ映画なんかはかなりそういうのに近いのでしょうか???)。

いっぽう、たしかに音楽を中心に考えますと、「音楽は映像に付随的あるいは相補的」であるとはいえます。しかし映画がひとつの完成した表現方法だと考えますと、音楽が付けられることによって、それがようやく完結する、つまり音楽は映画にとって必要不可欠な存在である、ということもいえるような気がします(実験的な映画だと違うのかもしれませんが)。音楽がまったくないトーキー映画というのは、かなり限られているそうですから。

「映画音楽を19世紀クラシックの次男とみるか、継子とみるか」という問題は、クラシック(映画音楽の書き手が使う「純音楽」の一部なのでしょうか)がメインであって、映画音楽はサブであるといったニュアンスがあるように思います。これをどう判断するかは、政治的な駆け引きになるようで、私自身はあまり興味がないのですが、いずれにせよ、そういったクラシック的なオーケストラの響き、機能和声を使った作曲技法(ただし映像や物語のナラティヴと離れて存在しない)が映画にも引き継がれたことは事実で、「原理主義的な」(?)クラシックの世界では、(機能和声や調性にもとづいた20世紀音楽はあったにせよ)機能和声や協和音から離れて書くことが、「現代音楽」というメインストリームとしてクラシックのなかで特別な待遇を受けた(受けている)ということはあった(ある)、と考えております。そのような文脈のなかで、19世紀音楽の世界では考えられないほどの新しい音楽表現の探求がおこなわれたことは、歴史の記述にも残っているように思います。[谷口昭弘]

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