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2006/02/08

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その8──現代音楽と映画音楽〈2〉

 沼野です。

 このトーク、いろいろな論点が同時進行しているので、一問一答的に噛み合ったやりとりにはなかなかなりませんが、それでもテーマをめぐって自由に発言する内に、何かいいアイディアが見えてくる気がします。今回は、谷口さんの議論の最後の部分に触発されて、現代音楽と映画音楽の関係について、思うところを書いてみます。

 2004年から神奈川県民ホールで行なわれていた連続シンポジウムの記録が、先日『21世紀における芸術の役割』(小林康夫編、未来社)として出版されました。この冒頭に収められた、音楽と建築をめぐる討議に私も参加しているのですが、ここでは、19世紀から20世紀にかけてパリからニューヨークへ、すなわちヨーロッパからアメリカへと美術の中心が移動したのにも関わらず、なぜ音楽は頑なにヨーロッパから動かなかったのかという問題が提出されています。シンポジウムの中では十分に言葉が尽くせなかったのですが、もちろん実際には「移動」はあったわけです。クラシック音楽内の枠組みであれば、中心地は相変わらずヨーロッパだったといってよいでしょうが、広義のポピュラー音楽を視野に入れれば、音楽の中心は明らかにアメリカへと移ってしまった。

 ここら辺、「クラシック音楽」「芸術音楽」「美術」「ファインアート」といった単語間のズレやねじれのために、音楽と美術を単純に対応させて考えると、いろいろと混乱が起るところかもしれません。しかしながら、ともかく20世紀の音楽文化の最重要発信地といえば、これはもうアメリカに決まっている。とりわけ20世紀後半のロック、ポップス、黒人音楽を考えれば、その力は圧倒的です。

 ところで、こうした20世紀アメリカの様々な音楽文化の中でも、トーキー以降のハリウッド映画音楽は、19世紀クラシック音楽のある側面をそのまま引き継いだものでしょう。つまりクラシックには、ヨーロッパに残った原理主義的な長男の「現代音楽」だけではなく、もうひとり、アメリカに渡った次男「映画音楽」がいた、と。ヨーロッパからアメリカへの音楽中心地の移動は、普通に考えれば一種のジャンル交替といえるわけですが(クラシック→ポピュラー音楽)、一方で、クラシック音楽の創作という枠組みの中で継続性をたどってみるならば、それは20世紀初頭に、ヨーロッパの現代音楽とアメリカの映画音楽という2人の子どもに分裂していったといえないだろうか。

 反抗的な長男は、親の世代を全否定しながら様々な運動に参加し、伝統を破壊したり再生したり、むちゃくちゃに暴れましたが、さすがに20世紀末になると老いもあってか(?)、ずいぶんとおとなしくなってしまう。体が動かないと、長男の芸風ではきついわけです。他方、次男は楽天的な性格が幸いして、浮き沈みはあるものの、ちゃっかりと親の「遺産」を運用しながら20世紀を生きてきた。

 そもそも、前回もエクスキューズ含みで書いたように「映画音楽」といっても、スタイナーやコルンゴルトみたいなロマン派直系の亡命作曲家音楽もあれば、前衛的な語法も使われるし、ミニマルもある。つまりここにはクラシックの遺産の多くが(後述するように全てではないものの)詰め込まれているといえます。ここで私が最も重要だと思うのは、オーケストラというきわめて不経済なメディアが、このジャンルではまだ生き延びていることです。私にとって、これは興味深い。なんでいまだにオーケストラなのか。

 もちろん映画音楽には、ジャズもヒップホップも民族音楽もあるわけだし、映画音楽史的をタテに見るならば、典型的なシンフォニック・スコアは、60年代あたりからこっちは沈滞状況に陥っているといえるのかもしれない。しかしそれでも、いまだに映画音楽ではオーケストラが結構な頻度で使われるし、テレビでもNHKの大河ドラマ的なものは相変わらずオーケストラです(だから、一般には「オーケストラのための音楽」を書く日本の作曲家、あるいは「現代の作曲家」といえば、久石譲や坂本龍一、あるいは渡辺俊幸といった名前を思い浮かべる人が多いはず)。

 ただ、いくら映画音楽が19世紀クラシック音楽の次男だといっても、やはり大きな違いがあるといえばある。それが「形式」の問題です。クラシック音楽の歴史は、音だけで物語を作るにはどうしたらいいか、という形式との闘いでしょう。1時間以上も続くマーラーの交響曲を飽きずに聴ける人が結構たくさんいる、というのは考えてみれば大変なことで、長い歴史の中でのアイディアの積み重ね、および聴き手に対する教育の歴史があって、初めて1時間強という時間が何がしかの「意味」のあるものになる。

 一方で、映画音楽は映像とセットになっているために、自律した形式を持つことが難しい。もちろん何事にも例外はあるけれども、しかし一般的な映画製作の手順からいえば、音楽は映像に付随的あるいは相補的なものでしょう。ゆえに谷口さんやゴールドスミスが言うように、音楽だけ聴いても不都合な部分が多い。音響的な効果という点ではクラシック音楽(含「現代音楽」)の手法の全てが取り入れられてはいるものの、形式の探求ということでいえば、クラシック音楽とは大きな切断がある。

 きっと、映画音楽を19世紀クラシックの次男とみるか、継子とみるかは、この形式の問題に関わってくるのでしょう(なにか現在の女帝問題みたいですが)。また、「クラシック」と「映画音楽」の間に、オペラやミュージカルという補助線を引くと、さらに違った側面が見えてくる気もします。なんだか取り留めのない話になってしまい申し訳ないのですが、とりあえずここら辺で。[沼野雄司]

 ※ピーター・バート氏の『武満徹の音楽』、いい本でした。『音楽の友』に書評を書く予定です。

 

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