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2006/02/07

モーツァルト、噂の交響曲?

AMラジオというものをふだん聴かないので、ラジカセのAMラジオ用のアンテナ(あのプラスチックの枠にケーブルをぐるぐる巻きにしたやつ)を探しだすのにえらく手間どりました。

2/4(土)19:00よりのTBSラジオ『モーツァルトの謎〜「噂の交響曲」は本物か?』のハナシ。ウィーン楽友協会が2004年にオークションで落札した筆写譜が、モーツァルト幼少時の作品である可能性があり、海老澤敏氏、発見後の初演を指揮した前田二生氏をゲストに、それを検証する、という趣向の番組でした。

個人的な結論からいえば、「あきらかに違う」と断言してしまうのですが、学者の仕事ってここから始まるわけで、頭が下がります。「どうしてモーツァルトの作品でないか」ということを、さまざまな側面から検証していかなければならない。もちろん、モーツァルトの真作であることが証明される可能性もあるわけですが……。

でも、「あきらかに違う」と断言してしまう“直感”というものもまた、たいへん重要なものだと思います。って、開きなおってるだけのようでもありますが、すべての研究は、この直感から始まるわけですから。

この直感が、「クオリア」とよばれるもの。このラテン語は通常どう訳すのか、よく知りませんが、茂木健一郎著『脳と創造性』(2005、PHP)では「感覚質」と訳されていました(英語の「quality」のもとなんでしょうね)。ようするに、複数のひとが同じ「赤いリンゴ」を見て「赤い」といったとしても、全員の網膜に映っているのが同じ「赤」なのかどうかは、どうやっても検証できない。この「私秘的」な感覚のことを、「クオリア」といいます。

このきわめてプライベートで曖昧模糊としているけれども、「ぜったいに間違っていない」「これだけはゆずれない」という「確信」に近い感覚こそが、「普遍性」の基盤となるのです。

そう考えると、さきほどのモーツァルトにかぎらず、このblogで再三話題にしている「現代音楽」だって、まずはこの「クオリア」を信ずるところから、話を始めねばならないでしょう。

ただ、「これはモーツァルトではない」と断言するためには、それまでにモーツァルトをどれだけ聴いてきたか、他の作曲家との違いをどれだけ意識してきたか、という蓄積がどうしたって必要です。つまり、「クオリア」は学びそだてることが可能であり、その意味でたんなる「直感」「山勘」とは異なります。

ぼくらがたとえばクセナキスの、コンピュータによる演算から生まれたような音楽に、どうして美を感じ、その価値を信ずることができるのか──それを問いつづけるところにこそ、現代音楽の(いやむしろ音楽そのものの)「おもしろさ」がある、といってもいいでしょう。

ちなみに、小生がどうして件の交響曲を「モーツァルト作でない」と判断したか──むりやり言葉にすれば、フレーズの移り変わりがつぎはぎでモーツァルト独特の統一感、時間の流れが感じられない、ということになりますが、とつぜん脈絡のないフレーズがあらわれるのはモーツァルトの特徴だし、いま「第1番」とされているK16よりも「古い」交響曲らしいから、それこそ小学校に上がったか上がらないかの小僧がつくった音楽に、統一感もへったくれもないだろう、という意見だってあろうと思います。でも、そういう幼いときの作品だからこそ、時代様式などとは別の、モーツァルト独特の「クオリア」がにじみ出しているはず、ともいえるわけで……。これ以上は、「私秘的」な感想として、伏せておきましょう(笑)。[genki]

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