「古楽特派員テラニシ」002──バッハ鍵盤曲・編曲の可能性(アンサンブル音楽三昧2006/02/12)
チェロの田崎瑞博、ヴァイオリンの川原千真らによる「アンサンブル音楽三昧」が先月(2006年2月)、茨城と東京で、バッハの《平均律クラヴィーア曲集第1巻》のプレリュード全曲など、鍵盤作品を他の器楽のために編曲して上演するという試みをおこなった。その意図や、そこから見えてきたバッハ上演の新たな可能性を考えた(写真は2月12日の東京・ハクジュホールでの公演。撮影:寺西肇)。
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「バッハ自身も、たとえば自身の無伴奏ヴァイオリン・ソナタをオルガンやリュートに編曲している。このことから、彼は特定のための楽器に作曲したというよりも、無限の可能性のなかから楽器を選択したような感覚がある」と編曲も担当した田崎。「おそらくバッハが作曲した当時から、彼の作品は多くの人がさまざまな編成や楽器で演奏していたにちがいないと思う。この傾向はロマン派でも同様で、交響曲にいろいろな編曲があったことでもわかる」と主張する。
そして「なにより私は、ソロ作品をアンサンブルで演奏してみたくなる体質で……」と苦笑する。東京と茨城でおこなったステージでは、《平均律第1巻》から24のプレリュード全曲、《前奏曲とフーガ変ホ長調》(BWV552)、《パッサカリア ハ短調》(BWV582)を披露。平均律では冒頭と終曲を原曲どおりチェンバロで、あとは管弦楽器を組み合わせた編曲で聴かせた。
じつはこれまでにも、バッハの鍵盤作品の編曲の試みは多くあった。古くは、モーツァルトが《平均律第2巻》のフーガを弦楽四重奏に編曲(K405、1782年)。現代でも、オルガン独奏のためのトリオ・ソナタ(BWV525-530)はフルート独奏と鍵盤楽器、あるいはヴァイオリンを加えて演奏される機会も多い。同じく、有名な《トッカータとフーガ》は、ヴァイオリニストのヤープ・シュレーダーやアンドリュー・マンゼがヴァイオリン独奏曲に、《イタリア協奏曲》は、鍵盤楽器奏者のリナルド・アレッサンドリーニが弦楽を中心とした器楽アンサンブル曲に“衣替え”した。
田崎は「編曲が、ただ楽器の置き換えだけだとつまらない」と主張する。今回は、ヴァイオリンやチェロのソロから、管楽器をまじえた五重奏、さらにバス・ガンバ、チェロ、ヴィオローネ(コントラバス)と低弦楽器ばかりの三重奏など自在な発想で編曲。だが、《平均律》は曲が進むにつれて半音ずつ調が変化するという独特の構造になっているため、今回は原調のままの演奏にこだわったという。
「本質にせまるような仕事をしたかった。なにより原曲の輝きを失わせないように留意した。場合によっては、原曲と違ったイメージにもなりうるが、やはりバッハの作品だという事実からずれては、なんの意味もない。作曲家への敬愛なしには、このような仕事にはけっして取り組まない」
実際に臨時記号が多くなると、木管楽器の指づかいが煩雑になるため、異なった調の楽器(移調楽器)を使うなど工夫を凝らしたが、とくに低弦の演奏上の難度は並大抵のものではないことが聴いてとれた。後半の《前奏曲とフーガ》はニ長調に移調、《パッサカリア》は原調で演奏した。
田崎自身は上演前に「(響きの感覚は)編曲者として、当然あらかじめわかっていなくてはならない事柄なので、やはり聴いた側の衝撃が大きいと思う」と語っていたが、実際に耳にすると、耳慣れた《平均律》が、まったく違った音楽として聞こえてくる。また、原曲からあるていど、編曲のゆくえの推測が利く作品もあるいっぽう、それが裏切られる“心地よさ”を味わわされる場面も多かった。「私自身、詳細に楽譜を検証したことで、あらためてこの作品の対位法や和声のすごさに圧倒された。それだけでも、私たちにとって大変な収穫」と田崎。
そして、バッハ作品の「編曲」のこれからの可能性について、「無限にあると思う。問題は、あくまで原曲のほうが聴く側に歓迎される場合が多いので、『何でも無理に編曲』とはいかないこと」と、慎重かつ緻密な作業が要求されることを強調しつつも「鍵盤作品は編曲の可能性の宝庫。これからも、いろいろな可能性を試してゆきたい」と語る。今回の試みは、鍵盤曲の編曲という行為が、バッハ当時の慣習をただなぞるのではなく、バッハ作品の新たな魅力を現代に発見する手がかりともなりうる可能性を示した、とは少なくともいえそうだ。[寺西 肇]
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