日本の作曲・21世紀へのあゆみ 第36回「室内楽の諸相IV〜1980年代」(2006/03/07@紀尾井ホール)
◆日本の作曲・21世紀へのあゆみ 第3期(1976〜2000)II
第36回「室内楽の諸相IV〜1980年代」
2006年3月7日 紀尾井ホール
◎曲目
近藤 譲/始め、中、終り(1987)
木ノ脇道元(フルート)、クァルテット・エクセルシオ(弦楽四重奏)、
佐藤紀雄(指揮)
三善 晃/響象I(1984)・II(1995)
小坂圭太・中川俊郎(ピアノ)
新実徳英/旋法の虹(1988/95)
稲垣 聡・中川賢一(ピアノ)
西村 朗/八手のための舞曲(1987)
小坂圭太・中川俊郎・稲垣 聡・中川賢一(ピアノ)
林 光/レゲンデ(1989/90)
クァルテット・エクセルシオ(弦楽四重奏)
* * *
ひさしぶりに「音楽」を聴いた──そういう充実感のある演奏会でした。個人的には、作曲家の「世代」というものをとおして、音楽の身体性について、あらためて思いをはせた夜となりました。
1930年代生まれの林光さん、三善晃さんの作品には、大前提としての「音への信頼」があります。それはことばを換えれば、「身体への信頼」──つまり「人間が出す(考える)音には間違いはない」という、揺るぎない確信です。音楽に身をゆだね、奏者とともに時間をつむぎ、呼吸をともにする、ある意味イノセントな歓び、幸福感を感じさせる音楽でした。
40年代生まれの新実徳英さん、近藤譲さんの作品には、それに対して、「身体性への否定あるいは懐疑」とでもいえるような態度が感じられます。新実作品は、徹底的にメカニックにピアノを扱うことにより、「光一元」とでもいえるようなまばゆい、人間存在を超えた宇宙観をえがきだしています。いっぽう近藤作品は、演奏からすべての身体的要素(たとえばヴィブラートや自然な呼吸)をはぎ取り、また音楽の構造が本来的にもつ「磁力」さえも相対化しようとします。その結果、「音自体」とでもいえるような、生々しい事象が、厳しさと静謐さをもって提示されます。
面白かったのは、新実さんの作品も近藤さんの作品も、ある意味、音楽の身体性を否定するかのような造りになっているにもかかわらず、「ライヴ」ならではの魅力もまたひじょうに感じられる作品であったこと。新実さんの作品はCDで愛聴しているのですが、CDでは自動演奏やミニマリズムにも通じるような無機質なメカニズムが強調されるのに対し、ライヴでは奏者の根源的な躍動感が、絢爛たる光の建造物を構築していくダイナミズムがじゅうぶんに感じられるのです。近藤作品もしかり。身体性を否定するような音楽が、人間の身体から主体的に生み出されていくという逆説が、この作品に真実をあたえているのだと思いました。
残る西村朗さんは、50年代生まれ。民族音楽の強烈なリズム──というよりもビートに、熱狂的に身を投じる、危ういまでの陶酔があります。これは、林作品や三善作品にみられる「信頼」とは、じつはひと味違います。「死への欲動」とでもいえるような、没我への希求が、西村作品の推進力となっているのではないでしょうか。
演奏家は巧者ぞろいで、安心して曲に入っていくことができました。とくに、三善作品での中川俊郎さんの豊かで柔らかなピアニズムが印象的でした。[genki]
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