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2006/03/18

涙の形 The Alchemy of Tears

Alchemyエヴリン・タブというソプラノ歌手を知ったのは、1995年秋のコンソート・オヴ・ミュージック来日公演。ぼくのめあては、ほかの多くのひとたちとおそらく同様に、ソプラノのエマ・カークビーや音楽監督・リュートのアントニー・ルーリーでしたが、輝かしいカークビーのソプラノに寄り添い、陰影をあたえるかのようなタブの歌唱には、うまくことばにできないけれども、強く深い印象をもちました。いや、正直にいえば、2003年につのださん、波多野さんとのステージでふたたびその歌と再会したときに、そのときの陰影をもった印象が、記憶の中でふさわしい場所を得た──というのが正しい。音楽は記憶の芸術ですが、よい演奏会はまた、過去の記憶を創造しなおすこともある、というひとつの例でしょうか。

そうして処をえたぼくの記憶が告げるタブさんの歌唱は、いわゆるクラシックの歌手とはまったく違っていて、むしろアイルランド土着のフォーク・シンガーに近いような、型にはまらない自由さと、〈うた〉そのものの伝統への忠実さを矛盾なくあわせもっています。これは、じつはいくら強調してもしすぎることのない点だと信じているのですが、ぼくは(こういういいかたが許されるならば)このような〈うた〉が、このクラシックの世界で、よくもまあ生き残ることができたものだ、と感嘆すらしているのです。
martin_hayes具体的にいうと、タブさんの歌唱の「自由さ」は、たとえばその音程の独特の操りかたにあります。それはほんとうに微妙なものなので、CDを(いや、できれば、ライヴで!)聴いて確認していただくしかないのですが……(以前、マーティン・ヘイズというアイルランドのフィドル奏者のCDを、何人かの同僚に聴いてもらったところ、クラシック好きのひとほど、その独特のピッチ・センスに違和感をおぼえ、音楽を楽しむところまでいかなかった、そのことを思い出します)。
もうひとつは、その呼吸のコントロールの自在さ! ほとんど絞りだすかのような、呻きとも溜め息ともつかないうたに、上述の独特のピッチが乗って、ほんとうに独特の世界を作りだします。

* * *

さて、このCD『涙の形(The Alchemy of Tears)』(PARDON, TH5941)。エヴリン・タブ(ソプラノ)、波多野睦美(メゾソプラノ)、つのだたかし(リュート)の3人が、2003年と05年のコンサートを中心とする交流のなかで、時間をかけて熟成させたレパートリーとアンサンブルが堪能できるアルバムです。
owl_bookアルバム・タイトルにある「alchemy」とは「錬金術」の意。「chemistry(化学)」のもとにもなったことばです。アルバムに添えられたアントニー・ルーリーの解説(訳しているのは、波多野さん自身です!)にあるように、「涙」というものは、ルネサンス時代、錬金術のマテリアルとして用いられたこともあったとか(ここでアーノルド・ローベルの絵本『ふくろうくん』所収の「なみだのおちゃ」を思い浮かべるのは、ぼくだけでしょうね)。ここは、ジャケットにあしらわれた、イマジネーションを喚起する望月通陽さんの型染の連作(手折られ束ねられた「涙の小枝」が、小舟に乗せられ旅をするうちに、つぼみとなり、花をほころばせてゆく……)をご紹介するにとどめます。

収録曲のうち、やはりもっとも重要なのは、冒頭の《逝ける者への涙》と題された、J. コペラリオの7曲からなるツィクルス(1606年出版)でしょう。この作品は、ある貴族と結婚後まもなく夫に先立たれ寡婦となった女性のために、亡夫の思い出を永遠のものにするという目的で作曲されたものですが、じつはコペラリオにはもうひとつ「喪のうた」があります。《哀悼の歌(The Songs of Mourning)》と題されたその作品は、国王ジェイムズ1世の世継ぎにあたるヘンリ王子が、18歳という若さで世を去ったことを悼んで作曲され、1613年に出版されたもので、この作品については、ルーリー自身の著作『内なるオルフェウスの歌』で詳しく解説されています。以下は同書からの引用です。

……悲しみの表出によって、現実の悲しみが使い果され、[喪の期間]延期されていたヘンリーの妹エリザベスとプファルツ伯フリードリヒ五世との結婚式が不当に遅れることなく挙行されるように。また、この悲歌で悲しみの傷口を広げ、「血を流す」ことで、ヘンリーの弟チャールズが、勇敢な兄の跡を継ぐ心構えをできるだけ早くするように。そして最後には、悲嘆を適切に表現することによって、この歌曲を天空を満たす精気に運ばせ、ヘンリーの逝った霊魂ができるだけ容易に天国へ飛び立つことができるように……。

(アントニー・ルーリー著/有村祐輔訳『内なるオルフェウスの歌──古楽が教えてくれるもの』1995年、音楽之友社、p.149〜150。下線引用者)

rooley_bookつまり、「喪のうた」という徹頭徹尾プライヴェイトな“場”において、作曲者がしなければならないことは、いたずらにその哀しみを普遍化し、たとえば神による鎮魂をうたうことではなくて、嘆き悲しむひとのそばに終始寄り添い、その哀しみを、むしろより深く深く掘り下げ、その涙の井戸の底深くに、ひと粒の真珠のような“希望”を掬いあげることなのです。
ここからが、芸術というものの不思議な(いや、たぶんそのために芸術というものが存在を許されるくらいのたいせつな)ところなのですが、あるひとりの人間の涙であったはずのその真珠が、その輝きによって、世の多くのひとびとを照らし癒す普遍の光となることがある。まこと、「涙する音楽は喜びである」(ルーリー。CD解説より)。コペラリオの《逝ける者への涙》は、まさにそのような傑作のひとつなのです。
3人による演奏も、いたずらに悲哀をかきたてるでなく、たんたんと突きはなすでなく、嘆きにくれる親友の肩にのせられた掌のぬくもりのような親しさ、ねんごろさでもって、アンサンブルを織りなしてゆきます。
コンソート・オヴ・ミュージックでのカークビーとのアンサンブルでは、タブさんは、輝かしい前景に奥行きをあたえる役割に徹していたようでした。ここで聴かれる波多野さんとタブさんのそれは、なんと異なるテイストのものであることか! 憂いを含む切実なタブさんの歌唱に、波多野さんの深くやさしい歌声が、3次元的な奥行きというよりも、むしろ4次元的な豊かさ──つまり、〈時〉のもつ奥行き、記憶の奥深さをあたえています。過ぎ去り、戻ってはこない〈時〉、それは鎮魂の対象である亡きひとの象徴でもあるわけですが、〈記憶〉となった〈時〉は、残された者が、そのひととともに永遠に生きることを許す慈悲となるのです。

〈記憶〉ということにかんして、もうひとつ付け加えるならば、タブさんのうたは、ヨーロッパの音楽が、いつのまにか喪ってしまった「いにしえのうたの記憶」を伝えていると思います(J. ダニエル作曲《悲しみよ内にとどまれ》での歌唱に、それは明らかに聞こえてきます)。そこにぼくたちは、〈うた〉そのもの、そして〈音楽〉そのものへの「喪のうた」ともよべる切実さ、誠実さを、耳を澄ませて聴きとるべきなのだと思うのです。[木村 元]

 

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