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2006/03/29

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その14──音楽とアイディアについて〈その3〉

木村です。谷口さんのご投稿を読み、自分の乱暴な議論に恥ずかしくなっております(汗)。だいたい、ベートーヴェンとケージを並べることじたいに無理があるわけですが、まあ、恥かきついでに、行けるところまで行ってみたいと思います。

ただ、あんまり「ベートーヴェン」に拘泥すると、話の主旨がみえなくなってしまいますので、少し話題をしぼらせていただきます。谷口さんの投稿のなかで、(4)として引用してくださっているぼくの記述:

(4)乱暴にいってしまえば、ケージを知らずに現代音楽はできないけれど、ベートーヴェンを知らなくても(あるいは知らないほうが)現代音楽はできる(ほんとうに価値ある音楽がそこから生まれるかどうかは、別問題として)。

ここから、もういちど話を始めさせてください。

* * *

谷口さんが書かれているように、「ベートーヴェンやケージを知らずとも、作曲することはいくらでも可能」だというのは、たしかに事実です。ただ、ぼくがここで強調したかったのは、それにもかかわらず、「ケージを知らないひとが、現代音楽を作曲し、公にすること」が、じつは「事実上不可能」である、ということです。それほどまでに、現代音楽において、「アイディア」というものは、音楽そのものとほとんど同義であるといっていいくらいに、重要なものである、といえるのではないか──ということなのです。

谷口さんが紹介された、ブラッキングのいわゆる「humanly organized sound」という定義にしたがうならば、ベートーヴェンとブラームスでは、「organize」の仕方が違う、ということが、作品のオリジナリティの担保となります(その結果として生まれた音楽が、いかに似ていようとも!)。しかし、前回例にあげたように、《4分33秒》を知らずに、「無音の音楽」を作曲したり、メシアンの作品を知らずに、「鳥の鳴き声」を精密になぞることを主たる目的とした作品を発表したりしたら、やはり「二番煎じ」の謗りをまぬかれえないでしょう。音楽以外の分野でいえば、いかに描写や設定が異なろうとも、同じトリックをもちいた推理小説を「創作」することは不可能だし、あるいは、デュシャン以後に便器を「芸術作品」として展示することも不可能だ、というのに、それは似ているかもしれません。

ことほどさように、おそらくは、1920年代初頭にシェーンベルクあるいはハウアーによって「十二音技法」が発見されていらい、現代音楽においては、「アイディア」というものが、その作品の価値の大なる部分を占めてきたのではないか。そして、もしそうだとすると、それにもかかわらず、現代音楽を作る作曲家が「アイディアではなく、音楽そのものを聴いてほしい」的な発言をしたとき、その「音楽そのもの」とはいったいどこにあるのか──。

現代音楽のコンサートに行って、「いったい、どこを(なにを)聴けばいいの?」と思うこともよくありますが、そんな素朴な疑問を、ぼく自身もつことが多いもので、こんな問題提起をさせていただいたわけです。[木村 元]

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