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2006/03/24

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その13──音楽とアイディアについて〈その2〉

谷口です。

木村さんのご投稿、いろんなアイディアが詰まっておりまして、なかなか手を付けられないでいるのですが、ここではそのご投稿をいくつかに分け、それぞれについて私の意見を書いてみようと思います。

* * *

(1)いまどき大学へ作曲を学びにやってくる学生の大多数(!)が、ベートーヴェンが生涯に何曲の交響曲を書いたか知らないのだ、というのです。

「ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた」を知っていること──それ単体ではあまり意味のない情報だと思います。ただその事実はクラシックに多少関心がある人でも知っているし、「専門」と称するつもりの人が知らないと恥ずかしいということはあるかもしれません。もっともそれにかんしても、いちど知れば大丈夫なことなので、たいしたことではないと思います。
それでも「ベートーヴェンが9曲の交響曲を書いたことを知らない」ということから広がってくるイメージは、かなりあるでしょうね。つまりクラシック全般にたいする知識・関心がないと思われてしまうということでしょうか。それによって本人の信用が落ちてしまうようなことがあるのであれば、やはり知っていて損はないということかもしれません。
より本質的な問題は、おそらく「ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた」ことに関連づけられる、さまざまな問題ではないかと考えます。たとえばベートーヴェンの9つの交響曲がどういう意味をもっているのかを考えることだと思います。よく話題にされるのが、モーツァルトは41曲、ハイドンは104曲(いちおうここでは通説にしておきます)書いたのに、どうしてベートーヴェンは9曲しか書いていないのか。こういうことを考えるときは、9曲という数が重要になってくるように思います。あるいはベートーヴェン以降の作曲家が、どうして交響曲を作曲するのに躊躇してしまうのか、等々……。もっとひねくれた見方をあえて考えますと、「ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた」ことを知らなくとも後期弦楽四重奏の1曲の詳細について自己の分析や考察をふまえて語れる人のほうがすごいかもしれない、ということかもしれません。ようは「ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた」というのがどういうことか、の問題かと思われます。
では、まったくベートーヴェンの作品について知らないという人がいたら……。これは音楽大学ではありえないことのように思えます。試験の課題曲になっている可能性があるし(私も音大入試で弾いたことがあります)、音楽理論・音楽史の授業でまったく触れないというのは、かえって難しいと思います。
いっぽう大学教育問題から「ベートーヴェンは9曲の交響曲を書いた」ことを知らないというのは、実技系の学生ならば、それほど珍しくないことのように思えます。ピアノ科の学生はピアノ作品、声楽科の学生は声楽曲・オペラにかんする技術・知識はもっているのが当然ですが、それ以外のことにまったく関心を示さない学生も少なくない、ということも現実としてあると思います。それを学生の関心の狭さ・志の低さと切り捨てることも可能ですが、大学側も、レッスンで幅広い音楽にたいする議論などすることはあまりないということもあるんじゃないでしょうか。また、実技と理論・歴史との間に距離があるような環境だと、この2つの柱から生みだされる相乗効果(最近テレビでもよくでる「シナジー」?)にたいする認識も低くなるということがあると思います。そしてプロの演奏家以外の職業を考えるのであれば、じつは実技以外の音楽知識というのは、けっこう大きな力になるようにも思えるのですが、いかがでしょうか。
では、あえてベートーヴェンにまったく触れずにいることが、いちじるしく現代音楽を作曲するときに不利になるか。これは私には難しい質問です。それはどういう音楽を作りたいのかによって変わってくるように思うからです。あえてあいまいに答えれば、ベートーヴェンを知ったほうが面白い作品を書けるかもしれないし、知らないほうがいいという場合もある、ということで、いまは勘弁させてください。できれば作曲家のかたに意見をうかがいたいものです。これはまた、「現代音楽」というのはどういう音楽か、で違ってくる問題かもしれません。

(2)現代において、ケージの《4分33秒》を知らないひとが、まったく独自に同じアイディアにたどり着き、作品を発表したとしても、その音楽の価値が評価されるとは思えない。馬鹿にされて笑われるのが関の山でしょう。

ケージの《4分33秒》じたいも、初演時には冗談に思われたんじゃなかったかと思います。おそらく現在でも「ネタ」として重宝がられているんじゃないかとさえ思います。哲学的議論にも使いやすい題材ではないでしょうか。

(3)ここで、「ベートーヴェンを知らずに音楽を志すとは、言語道断!」と切って捨てるのは簡単ですが、もしかしたらベートーヴェンなど知らないほうが、現代音楽の作曲には有利(あるいは楽)かも、などと思ってみたりもします。

「ベートーヴェンを知」るというのが、何をさすかというのが難しそうです。いっぽう「ベートーヴェンを知らずに音楽を志すとは、言語道断!」と切り捨てる人はどういう人なのか、というのを考えることは面白いと思います。またベートーヴェンみたいな音楽だけは作りたくないという人は、ベートーヴェンの音楽を知っていたほうが、その避け方が分かるということはあるかもしれません。

(4)乱暴にいってしまえば、ケージを知らずに現代音楽はできないけれど、ベートーヴェンを知らなくても(あるいは知らないほうが)現代音楽はできる(ほんとうに価値ある音楽がそこから生まれるかどうかは、別問題として)。

おっしゃるとおりで、ベートーヴェンやケージを知らずとも、作曲することはいくらでも可能だと思います。ただ楽曲を発表する場(作曲の先生の前、ライブハウス、コンサートホール、バンド仲間、祈祷/礼拝の場、 etc. etc.)において、その2人を知らないことによって、どのようなことが起こるかというのは、また別の問題のように思われます。

(5)「ベートーヴェンはひとつの文化だ。音楽そのものがよって立つほどの巨大な文化であり、それを知らずして音楽の門を叩くことは、許されざる冒涜的態度である。それに対して、ケージのほうは、たんなるアイディアであり、音楽にとって本質的なものとはいえない」と断ずるひともいそうですね。

ベートーヴェンを避けて西洋クラシック音楽を考えることは難しい、ということはあると思います。西洋クラシック音楽を勉強するということであれば、やはり知っていたほうが「お得」ではないかと思います。

(6)ケージにとってはそのアイディアというものが音楽の本質であり、それ以後の作曲家にとっては、「新しい音楽を作曲する」ということが、「どのようなアイディアを発見するか」ということと、同義とまではいわないものの、かなりの部分、重なっているのではないでしょうか。

「ケージは哲学者なのか作曲家なのか」という問いは、ケージの生前からなされてきた論議だと思います。私個人としては、どちらか一方にすることに無理があると思います。アイディア倒れだけでない作品の面白さというのはあると思いますから。彼のいろんな作品に触れてみるみることで、いろんな楽しみが聞こえてくると思います。

(7)ただ、多くの作曲家は、「われわれはアイディアを聴いてもらいたいわけではなく、音楽を聴いてもらいたいのだ」と主張します。それもよくわかる。聴き手のぼくたちだって、「アイディア」を聴きに演奏会場に足をはこんでいるわけではない──と思いたい。

私がアメリカの大学で実感したのは、この「音楽そのもの」といった考え方は、じつはけっこう新しいものだということだということです。つまり宗教や貴族社会のなかで文学や絵画と強く結びつき、19世紀にはそれ以前に確立した音楽形式を文学的なものを表現するために崩していくようなことをおこなったようなのですね。でも20世紀に入って、音楽理論への強い関心が「音楽そのもの」への関心を呼び覚ましたということがあるようです。

(8)でもここには、きわめて「ベートーヴェン的」な音楽のとらえ方があります。「音楽そのものを聴いてもらいたい」という作曲家は、この世界に隠された真理(創造主の意図?)を掘り出し、衆生にさししめす、という高邁な使命感を語っているようだし、「音楽そのものが聴きたい」という聴衆は、なにか人智を超えたありがたいものとして、それを受けとり、みずからの人生の糧とする。つまり、作品のなかに、価値が内蔵されている、という考え方です。

というわけで、この「ベートーヴェン的」というのは、じつは「音楽そのもの」以上のものがあったのではないかという気がするのです。もっとも私の場合、音楽は“humanly organized sound”というジョーン・ブラッキングという民族音楽学者の定義に従って考えているわけですが、その“organized sound”以上のもの、たとえば「真理」なり「人智を超えたありがたいもの」があるように思えるのですね。

(9)それに対して、アイディアが本質でもあるような音楽は、べつになにか真理をさししめすわけではない。ささやかなアイディアを示すことによって、世界の「見え方」が変わり、いままで真理だと思いこんでいたことさえも、不安定に思えてくる。作曲家は世界観を構築するのではなく、常識的な世界観を壊したり揺すぶったりするだけ。最終的に「世界がどう見えるか」は、あくまでも聴者にゆだねられています。つまり、こういう音楽の価値は、作品のなかには内蔵されておらず、聴き手のなかに「そのつど生まれる」ものなのだ、といえるでしょう。

「本質」「真理」というのは、私には手に負いかねるところがありまして、勘弁させてください。ただ「常識的な世界観を壊したり揺すぶ」るというのはベートーヴェンもおこなったことであると思います。またケージも独特の世界観を構築していると思います。

また、私はつねづね、「音」が「音楽」になる瞬間に興味をもっておりまして、あるいは「本質」「真理」という言葉がさししめすものが「音」を「音楽」にする概念(「アイディア」と訳すことも可能かもしれません)のひとつである可能性もあると思っています。

(10)ここでことわっておきますが、ぼくは「ベートーヴェンなど、もう聴かないほうがいい」といっているわけではありません。どちらかというと、ケージ的な音楽を知ってしまったぼくたちがベートーヴェンを聴くとき、19世紀のひとがベートーヴェンを聴くのとはまったく異なった精神態度がもとめられる(というよりも、必然的にそうなる)わけで、そうしたことをふまえてさえいれば、古典的な音楽を聴く、ということは、いまも音楽教育において必要なことだとも考えています。その意味で、前述の音楽大学の先生の嘆きは、もっともなことだと思います。

歴史は、つねに現在我々の視点でしか述べられないというのを聞いたことがあります。「その時代の気持ちになって」という主張もありますが、「その時代の気持ち」じたい、その時代のその時にしかわからないものであり、それはすぐさま過去になってしまう。だからこそ、歴史記述にはつねに新しい視点が生まれてくるのではないかと思います。ベートーヴェンの音楽に素晴らしさというのがあると認識する人(私もそのひとりに加わりたいと思っています)は、これからも彼の音楽に注目していくのではないかと思います。[谷口昭弘]

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