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2006/03/17

東京混声合唱団「《合唱美》種々の相」(2006/03/16)

◆東京混声合唱団第204回定期演奏会
 《合唱美》種々の相
 2006年3月16日(木)19:00 東京文化会館小ホール

◎曲目
ハインツ・ホリガー/《四季(Die Jahreszeiten)》(1975/78/79)より
 〈冬I〉〈春III〉〈夏I〉〈秋III〉
杉山洋一(メゲル・エルナンデス:詩)/ひかりの子(2006委嘱初演)
湯浅譲二(谷川俊太郎:詩)/《風》(2006委嘱初演)、《息》(2004)、《秋》(2006委嘱初演)
三善 晃(谷川俊太郎:詩)/3群の混声合唱体とピアノのための《あなた》(1989)
 ※ピアノ:中嶋 香、共演:新しい合唱団

◎演奏
東京混声合唱団 指揮:田中信昭

* * *

合唱には「ハモる快感」だけでなく、「ぶつける快感」もあります。合唱ほど、不協和音やクラスターやヘテロフォニーが、生理的快感をもたらす音楽はないでしょう。自分の声だけでなく、他人の声が微妙にまざりあって、自分の声帯を震わせてくれる──クラスターこそが合唱の醍醐味とさえ、いいたくなるほどです。
それは、歌う側だけでなく、聴く側にとっても同様です。聴き手の喉や身体もまた、共振しているのですから。
だから、合唱というジャンルは、誰にとっても「とりあえず気持ちのいい」音楽だといえます。どんなに前衛的な書法を使っても、聴衆は「とりあえず気持ちいい」のですから、作曲家にとっても、これほど腕のふるいがいのあるジャンルはないのではないかと想像します。
でも、その気持ちよさが、音楽そのものの価値を覆い隠してしまうとしたら──。
この日の東混の演奏を聴いていて、そんなことを感じるのを禁じえませんでした。

ホリガーの作品は、ドイツ・ロマン派の大詩人ヘルダーリンが、精神の均衡を失ったのち、亡くなるまで36年におよぶ隠遁生活のなかでつづった詩に付曲したもの。とはいえ、肝心の詩にたいしては、これでもかというくらい解体の手をふるい、音楽としていちばんめだつのは、詩の末尾に記された年月日と署名。ホリガーにとっては、それこそが意味のあるテクストだったのでしょうか。合唱は練習不足からか、微分音やクラスターに満ちた、やたらと複雑なハーモニーをこなすのに精一杯で、表現する、というところまでいっていませんでした。
杉山作品は、グレゴリオ聖歌ふうのユニゾン、クラスター状態でのポルタメントなど、合唱の聴的快感をそそる音楽でしたが、肝心の詩(スペイン語)の世界を伝えるところまで、やはり合唱団が曲をこなしきれておらず、けっきょく「なにがいいたかったのか?」という不全感が残りました。委嘱初演というからには、これからの再演の手本となり、また再演の意欲をかきたてるような演奏であってほしかった、と思います。ひとつの生命の「誕生」が死と表裏一体であることを、あくまでも肉感的にうたいあげたこの詩の本質に、音楽は、そして演奏はじゅうぶんに降りていっていない。グレゴリオ聖歌を模したユニゾンも、「祈り」という概念を記号化するにとどまっており、詩の肉と肉がぶつかるような熱さとは乖離が感じられました。

後半2作品は、さすがに手慣れた職人の手さばきで書かれた音楽といえ、安心して聴くことができました。
ただ、湯浅作品も三善作品も(いずれも谷川俊太郎の詩)、音楽が強靱でゆるぎなく、前面にですぎていて、詩の繊細な味わいを覆い隠してしまっている感もありました。
ただ、湯浅作品にかんしていえば、作曲家からの依頼にこたえて、谷川俊太郎さんが「音楽をつけてほしい」と自作から選び、送った詩は、いずれも「老いの不安」「老醜」というべきものが底に敷かれていて、これを作曲家はあえて、きわめてストレートな開きなおりをもって表現しており、老いの境地とはこうしたあっけらかんとしたものなのだ、という説得力も感じられました。
三善作品は、いつもの「三善節」全開の作品で、ただただ懐かしかった。「わたしはあなたではない。あなたにはけっしてなれない。あなたはだれ?」という「クオリアの問い」(作曲家自身のことばより)をテーマにする、きわめて個的な詩であるだけに、ここまで大合唱にする必要があったのか(新しい合唱団との共演)、ここまでフォルテで歌わせる必要があったのか、ひじょうに疑問です。少人数で歌ったら、どうなったのだろう? 音楽が魅力的であるだけに、そんなことも感じました。

会場に谷川さんが来ていて、紹介されたときに、割れんばかりの拍手がおこったのは、聴衆が、これらの音楽作品の価値の大きな部分が詩に負うものであることを、正しく知っているからでしょう。
音楽は(そして合唱というものは、とくに)、一歩まちがえば快楽となり、みずからのほんとうの価値をその快楽の背後に隠してしまうものです。作曲家も演奏者も、そして聴衆も、その快楽におぼれず、音楽の本質をみきわめる厳しさをすててはならない──そのことを再認識した夜でした。[木村 元]

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コメント

blogを拝見して思ったことを2,3書いてみます。

まずいわゆる「現代音楽」は、器楽作品よりも合唱作品のほうが、作曲者のメッセージがわかりやすそう、ということ。歌詞が楽曲の意味や構造を支えてくれますし、聴き手にとっては、作品の内容を理解する手がかりとなります。
あの夜の湯浅作品で考えてみます。
それほど聞いてはいませんが、私にとって湯浅さんの器楽作品はちょっと難解です。音響の斬新さを認めますが、その連続のなかから構成を聴きだし、意味を考えるのはしんどい。もっと簡単にいえば、途中で飽きちゃう。それと比べると、先日の作品は、「未聴」な響きの変化が、谷川さんの平明な詩によって、文脈を与えられている。変化の場所や意味は歌詞から想像できるし、(歌詞カードがあったので)曲の終わりから遡って意味づけができる。
湯浅さんのいう「未聴感」とは、聴き手にとって本来言語化にしにくい体験のはずです。というのもいまだ聴いたことがないものというのは、分類の網目にあるからです。これを言葉でアナロジー化していくわけですが、歌詞はその作業にとても便利ですね。


合唱の気持ちよさということについてですが、ピアノやヴァイオリンを弾いたことはない人がいても、声を出したことのない人はあまりいない。だから、ステージで歌っている人をみれば、たいていの人は、それがどのような気分でどのような考えで歌っているのか、自分の経験と声帯でなんとなく想像したり感じたりすることができます。

私は快楽派ですので、気持ちのよさも(あるいは気持ちの悪さも)、音楽作品の価値のひとつであり、本質だ、と思っております。もっというと、音楽は体を媒介にして感じ取るものですから、快にしろ不快にしろ、体のバイアスを無視したり、体を離れて音楽作品の本質を考えることはできない、それは、たんに楽譜を見ている場合においても、同様だと思っています。特に合唱は、体の感覚がよりストレートに反映するのではないでしょうか。
私もあの夜の演奏について、木村さんと同じように演奏者が「快楽におぼれ」ていたことに不満を感じています。でも、私の不満はどうも、演奏者が作品の背後にある本質を見極めていないことではなく、作品のもたらす「快楽」そのものの質を十分に吟味していなくて未整理であることにあるようです。(同じことかな?)
いや、簡単にいえば、楽譜をよく読んで、もっと練習しろ、ということなんですが・・・(^^;)。

投稿: 亀田正俊 | 2006/03/23 15:17

コメント、ありがとうございます。

歌詞と音楽の関係、興味深い問題ですね。もうすこし考えてみたいと思います。新実さんの《白・青》みたいに、「曲先」の場合もありますし。

投稿: genki | 2006/03/23 17:59

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