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2006/04/06

「古楽特派員テラニシ」004──バッハの偽作と異稿にかんして

Bachfest2005 作曲家が偉大であればあるほど数多く存在する「偽作」。あるいは、どれが決定稿か即断できない「異稿」の存在……。なぜ、このような作品が生まれるのだろうか。

 この答えを大バッハという一作曲家の側面から考えてみようと、英国クイーンズ大学の富田庸教授(チェンバロ)と筆者(バロック・ヴァイオリン)は、昨年(2005年)5月にライプツィヒのバッハ=アルヒーフ、11月にはダブリンとベルファストで、バッハの偽作と異稿をとりあげたパフォーマンスをおこなった(写真は2005年5月6日、バッハ=アルヒーフ・ライプツィヒ内ゾンマーザールでの演奏の様子。富田教授のウェブで録音の一部を聴くことができる)。

* * *

■美しき偽作

 まずわれわれがとりあげたのは、いったんはバッハの真作とみなされてBWV(バッハ作品番号)を割り当てられたものの、全集編纂の段階で偽作と判断され、全集から外された《ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ハ短調》(BWV1024)と、《同 ト短調》(BWV1020)。

 前者は、ドレスデン宮廷楽団のコンサートマスターを務めていたヨハン・ゲオルク・ピゼンデル(1687〜1755)作との説が現在、もっとも有力だ。実際に演奏してみると、つぎつぎに魅力的な旋律が現れる、きわめて美しい作品だ。ただ、バッハの作品としてみれば、旋律を展開させきらないうちに次のモティーフへ移ったり、技術的にも不自然なフィンガリングや移弦を強いられたりする。ヴァイオリンのテクニックにおいては、ピゼンデルはバッハを凌駕し、少々難ありのフィンガリングでも楽々とこなしてしまったということなのだろうか。

 後者は、冒頭から始まる華麗なチェンバロを一聴するだけで、バッハの様式ではないことが理解できる。明らかに前古典派の香りのする旋律は、この作品がバッハの次男、カール・フィリップ・エマヌエル(1714〜88)作とする説を裏づけているようだ。かたや、この作品の校訂譜(ショット)を発表しているフラウト・トラヴェルソ奏者のバルトルド・クイケンは、クリティカル・ノートのなかで「ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697〜1773)では?」と主張する。

 そもそも、この曲をヴァイオリンで演奏すると、重音やG線をまったく使わないため、現在はフルートのための作品だとする説が有力だ。その美しさゆえに、オーボエ奏者にも好んでとりあげられる。それではいったい誰が、どの楽器のために作曲したのだろうか。

■写譜と異稿の謎

 続いて、《平均律クラヴィーア曲集第2巻》から2曲(BWV870/1とBWV886/2)を、バッハの長男であるヴィルヘルム・フリーデマン(1710〜84)筆の写譜にもとづき演奏。同曲の研究で国際的にも知られる富田教授は、「父親のオリジナルにたいして、微妙な変更が加えられている。違った作品に仕上げようと考えたのか、それともたんなる悪戯なのか……」と首をひねる(この異稿にかんしては富田教授のウェブに詳細な解説がある)。

 大バッハ本人らが1723年に写譜したイタリア人作曲家、フランチェスコ・アントニオ・ボンポルティ(1672〜1749)作曲の《ヴァイオリンと通奏低音のためのインヴェンション》(BWV Anh.174)もたいへん興味深い。写譜と同時期にバッハが鍵盤楽器のために作曲した《インヴェンション》のタイトルも、じつはこの作品から着想を得た、ともいわれている。

 バッハによる写譜を、この作品の初版(1712年、ボローニャ)のファクシミリと見くらべてみると、オリジナルのスラーに大胆な変更が加えられているのが分かる。これは、バッハ自身の意志だと考えるのが自然だろう。われわれはバッハ=アルヒーフのペーター・ヴォルニー研究員から、この写譜のコピーの提供を受け、バッハの指示を忠実に守って第5番を演奏してみた。
 また、最後にとりあげた《オブリガート・チェンバロとヴァイオリンのためのソナタ第6番 ト長調》(BWV1019)は、様式的にはまぎれもない真作だが、バッハの自筆譜は現存せず、8つの写譜でのみ伝承している。われわれは、のちに《カンタータ第120番》の第4曲にも転用される美しいカンタービレ楽章をもつ、初期稿とされる版をとりあげた。作品全体としての完成度の高さから、筆者は「じつは、こちらが最終稿なのでは」と考えたが、富田教授は「共通する楽章の鍵盤パートを比較すると、たとえば初期稿で2声なのが最終稿では3声になっていたりと、より精緻に書かれている」と反論する。

■偽作は“愚作”か

 このように、偽作と異稿を並べて演奏してみると、なかなか魅力的な作品が多いことに気づく。写譜や異稿に触れることは、作曲者が自分にない様式を体得しようとする姿や、決定稿にいたるまでの作曲者の努力の道筋を知ることだともいえる。それよりひと筋縄ではいかないのは、偽作のほうだろう。

 いったん偽作だと判明するとBWVを“剥奪”されるのみならず、楽譜が入手困難になってしまうことも多い。とくに、最初にとりあげたハ短調ソナタは、この意味で“葬られた”作品だった。録音でも、アンドリュー・マンゼらごく一部の奏者がとりあげているにすぎない。

 実際に、今回は絶版になっていた楽譜を富田教授が古書店で探し出し、演奏にこぎつけた(余談ではあるが、この作品のオリジナル譜がドレスデンのザクセン州立図書館に所蔵されていることが判明した。今年のバッハフェスト取材のため渡独したさいに、調査を予定している)。

 それにしても、実際に演奏してみると、この美しさはどうだろうか。この作品にかぎらず、たとえばカンタータのなかにも、偽作と判明してほとんど忘れられているものの、このまま埋もれてしまうには惜しい作品がいくつもある。今回、考えなおしてみたかったのは、音楽における偽作が、美術における贋作のように、悪意によって生み出されたものなのかどうか、ということだ。

 少なくともバッハにかんするかぎり、答えは「ノー」だろう。時の流れのなかで失われてしまった作品が「じつは、現在残っている曲の数と同じか、あるいはもっと多くあったのではないか」とする研究者たちの言葉を聞くにつけ、バッハを愛する人たちの「1曲でも多く、彼の作品に触れたい」との思いが形になったものこそが、これらの偽作といえるのではないかと思えてくる。[寺西 肇]

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コメント

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投稿: FullerEunice30 | 2011/08/31 23:01

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