新コーナー! 戸ノ下達也の「近代ニッポン音楽雑記」001──合唱劇《冬のオペラ。大正二十五年の》の不思議な世界(2006/03/31)
私の問題関心は、音楽と社会のかかわりにある。その問題を解く鍵をこれまでずっと(そしてこれからも)日本近代史の歩みのなかに求めて考えているのであるが、ようやく1990年代後半以降、実際の「音」から時代を考える環境が整ってきた。今回は、先日上演されたステージを題材に、このテーマについて考えてみたい。
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「栗友会もんめシリーズ」は、日本を代表する合唱指揮者・栗山文昭を音楽監督とする栗友会が、2000年から開始した作曲家個展シリーズ。邦人作品の委嘱・再演をシリーズ化し、作曲家の創作活動を集大成するという企画運営面の特徴と、水準の高い作品演奏という音楽面の特徴をもった画期的なとりくみである。このような企画を考え、実行していく栗山のような音楽家がいることは、われわれにとってじつに幸せなことである、とあらためて実感する。これまで池辺晋一郎(いちもんめ)、新美徳英と西村朗(にもんめ)、三善晃(さんもんめ)が登場したこのシリーズ。最後となる今回は、「よんもんめのはやしひかるさん てらしまりくやさん」と銘打って、林光と寺嶋陸也の合唱作品演奏会と合唱劇3本の上演により構成された。
ここでは最後に上演された林光作曲による合唱劇《冬のオペラ。大正二十五年の》についてとりあげたい(3月31日・新国立劇場中劇場)。
作・作詞・演出:加藤直
作曲・指揮:林光(指揮を予定していた栗山文昭急病のため)
ヴァイオリン:手嶋志保
クラリネット/サックス:菊地秀夫
ファゴット:高橋誠一郎
ピアノ:寺嶋陸也
合唱:コーロ・カロス
特別出演・大月秀幸、冨田直美
90分1幕(序章、1章~13章、終章により構成。それぞれに林・加藤らしいタイトルが付された)のこの合唱劇は、ひじょうに重い社会性をもつテーマを扱った作品であるにもかかわらず、「夢見心地」の不思議なステージであった。1936年の世相を軸に、「昭和」という時代を考える、そして時代を超越してわれわれに働きかける“うた”の力を考える合唱劇である。
そもそも1936年=昭和11年を軸とする、というところが憎い。私などは、「昭和」の戦争の時代を考えるとき、日中全面戦争に突入する1937年であるとか、紀元二千六百年奉祝や新体制運動が唱導された1940年という区切りを考えてしまうのである。たとえば盧溝橋事件を契機に、《露営の歌》《海ゆかば》《愛国行進曲》と、1937年中に立て続けに発表された楽曲を並べていけば、それなりの主張ができよう──と素人は考えるが、林と加藤は違った。二二六事件と阿部定という1936年に起きた事件を、その後に続いていく時代の象徴として設定し、第三帝国の誕生やベルリン・オリンピックをほのめかしながら、そこにエノケン・ロッパ、永井荷風、明智小五郎や浅草オペラを出演させて、時代を語り歌う。かと思えば、気球に乗って「昭和11年」を旅立ち、さまよう子どもたちの行くつく先には、日本最初の歌謡である『梁塵秘抄』を歌う人々と後白河法皇まで現れる──という破天荒・荒唐無稽な発想。つねに当時と現代を対比させながら、でもけっしてナンセンスでもハチャメチャでもない、計算されつくした合唱劇の展開であった。
当時の楽曲と林作曲によるソングや合唱曲が錯綜して演奏されるのであるが、してやられたと脱帽したのが、《忘れちゃいやよ》の効果的な扱い。いわゆる「ネェ小唄」のはしりとして、レコード検閲をおこなっていた内務省から発売禁止処分を受けた、風俗思想統制の象徴であるこの楽曲を、阿部定のつぶやきや二二六事件に決起した青年将校の叫び、永井荷風の『断腸亭日乗』の朗読などとともに、じつにたくみに劇に乗せ演奏させて時代をあぶり出した第6章「雪ガ降ル アナタハ来ナイ」は、この合唱劇全体のなかでも重要な意味をもつ場面であった。
第8章以降では、この合唱劇の主題として全体に鳴り響く《いつもその日は雪》《広いお空に》《空の捨て子たち》というオリジナルの3曲を中心に、さまよう「昭和」という時代と人々を歌模様とともに描き出す。未来を描ききれず、また歴然とした格差にあえぎながら現代社会に生きるわれわれ自身も、21世紀になってもまださまよいつづけていることを、「夢居心地」のなかでありながら実感させられた。
特別出演の大月秀幸と冨田直美が漫才師、弁士などのじつに味のある影役者に扮し、時代の人々を演じるコーロ・カロスが歌いしゃべり演じる。楽しく笑いながらも時代や現実の重さがのしかかる不思議な世界が作り出された公演であった。コーロ・カロスのアマチュア合唱団とは思えぬ演奏や演技の技術レベルの高さには定評があるが、今回も個々のメンバーがそれぞれの役割を意識し、当時の民衆になりきって歌い演じていたことは、ソングや合唱曲の演奏表現や歌詞の発音、表情などから端的に感じられた。私は、監修および企画・台本としてかかわった「トウキョウカンタート2004オープニングコンサート」で、彼らとともにステージをもつ機会を得たが、演奏する楽曲の社会的背景や、歌詞の意味をみずから徹底的に理解したうえで、演奏や演技にのぞむ姿勢には驚愕した。その姿勢はこの合唱団に脈々と流れ、受け継がれている血であろう、といま実感している。
この《冬のオペラ。大正二十五年の》は、2002年のコーロ・カロス20周年演奏会で初演された作品である。今回の再演では台本や演出など、初演から大幅に改訂されている箇所もあったが、事実や時代背景を熟知しているであろう彼らによって、その意図がじゅうぶんに理解されて舞台化されたであろうと想像される。また、重いテーマを「夢見心地」に仕上げたのは、林の棒と楽器群の、ときとして朴訥に聴こえさせる伴奏者の功績が大であろう。
「音楽」は、つねになんらかのかたちで社会性を担っていなければその存在価値はない、と私は思っている。その社会性とは、政治や経済のみならず、ひとりひとりの日常生活──すなわち「生きる」ことに根ざすものすべてである。人や動物を愛すること、憎むこと、苦しむこと、花木を愛でること等々を、「音」というかたちで表現した作品を、演じ聴き観ることにより癒され、考えさせられ、元気づけられるからこそ、「音楽」の意味があるのではないか。たんなる創作側や演奏側の自己満足や技巧のひけらかしは「音楽」ではない。林の音楽(それはつい口ずさんでしまうような独特の“うた”)と加藤の意図を理解した今回の演奏は、まさに「音楽」を楽しませ考えさせるものであり、客席のわれわれをその不思議な世界へと無意識のうちに誘ってくれる演奏会であった。[戸ノ下達也]
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