« 白石和良の「闘う古楽&トラッド乱聴記」008──太田光子(2006/03/28) | トップページ | 具体から抽象へ、そしてふたたび具体へ──リュック・フェラーリの映画(2005/04/03) »

2006/04/12

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その15──音楽とアイディアについて〈その4〉

 谷口です。

 現代音楽の受容を考えるうえで、面白い議論になってきました。今回は私の好きなケージを中心に進めてまいります。

* * *

 まずは、私の心の中に潜む「お気楽モード」による回答から。

(1)お気楽モード

 ジョン・ケージの音楽に何を聴くか、う〜ん……そんなこと考えたこともないですねえ。しいていえば「音」を聴く、でしょうか。それ以上は考えないほうが楽でいいですよ。ケージって現代音楽では楽しいほうの部類になると思ってます。いやマジで。

 続いて、議論らしい(?)回答を。

(2)まじめモード

「ケージを知らないひとが、現代音楽を作曲し、公にすること」が、じつは「事実上不可能」である

 《4分33秒》という作品が内包する問題が、そのまま「現代音楽」全体に、どれだけ拡大できるかという問題があると思われます。といいますのは、《4分33秒》というのは、じつはケージ作品のなかでも特殊な例のように思われるからです。それに作品としてはそれほど魅力的に感じません。それこそアイディア的には単純ですので、すぐに「二番煎じ」となることはもちろん、これを発展させることも難しいように思います。私にとって作品にあるのは音を時間内に切り取った行為と、コンサート・ホールという社会的文脈くらいなものでしょう。

※でもケージって、《4分33秒》の続編となる曲も書いてるんですよね。《0分00秒》なんてのもある。マイクロフォンで会場の音を拾ってアンプにかける、なんてやってます。この場合は、《4分33秒》のコンセプトを知ってて、さらに音そのものに注目して楽しめる、不思議と最初のコンセプトがあるから、「一粒で二度おいしい」的な面白さがあります。

 おそらくこの議論でより本質的なのは、ケージの作品がコンサート・ホールで演奏されるとき、何を聴いているかということですよね。私の場合ですが、ケージ作品を聴くとき、「偶然性」とかどうとかいうことはほとんど考えてないように思います。アイディアにはそれほど関心がないのですね。もっとプリミティヴといいますか、「なにか面白そうな音がある」というところに興味があるんです。

 でも不思議とケージの偶然性の作品ってケージっぽい音をもってるんですよ。偶然性とは関係ないプリペアド・ピアノにも《変奏曲IV》でも、なにかしらケージっぽいものを感ずるです。不思議なもんですよねえ。

 以下、ご投稿への返信というかたちにします。

現代音楽において、「アイディア」というものは、音楽そのものとほとんど 同義であるといっていいくらいに、重要なものである、といえるのでは ないか──ということなのです。

 ここのアイディアという言葉が何をさすのか、それによってかなり議論の内容が変わってしまうのですが、おそらく音以外の要素、もっとありていにいえば「能書き」ということでしょうか。「この作品はかくかくしかじかの音列でできている」とか「偶然性をかくかくしかじかの部分にとりいれている」というような。

谷口さんが紹介された、ブラッキングのいわゆる「humanly organized sound」という定義にしたがうならば、ベートーヴェンとブラームスで は、「organize」の仕方が違う、ということが、作品のオリジナ リティの担保となります(その結果として生まれた音楽が、いかに似て いようとも!)。

 ウェーベルンとシェーンベルクはorganizeの仕方が違うように、ケージとシュトックハウゼンもorganizeの方法が違います。理論的に違うことはもちろんそうですが、作曲家の「個性」「オリジナリティ」はあると思います。

しかし、前回例にあげたように、《4分33秒》 を知らずに、「無音の音楽」を作曲したり、メシアンの作品を知らず に、「鳥の鳴き声」を精密になぞることを主たる目的とした作品を発表したりしたら、やはり「二番煎じ」の謗りをまぬかれえないでしょう。

 ということで、おそらくケージをあるていど知っている人はわざわざ、彼の作品のなかでも、作品としてはそれほど魅力的でない《4分33秒》のような「沈黙の音楽」というのは作らないんじゃないかと思います。

 「鳥の鳴き声」を使った曲ということであれば、ラウタヴァーラに《Cantus Arcticus》という曲がありますよね。彼の場合はもっと直接的に鳥の声をテープに録って使っておりますので、あんがい「鳥の声」による音楽は大丈夫なのかもしれません(???)。それに鳥の声の模倣の試みはヨーロッパ音楽には古くからあるのではないかと思うのですが。たとえば「カッコウ」を模した音型など。それこそメシアン風に模倣するというのであれば、メシアン風になるとは思いますけれど。

 私が以前、日本音楽史の先生からうかがったのは、ヨーロッパには「虫」にかんする曲が少ないということでした。たしかにジョスカンの《こおろぎ》くらいしか、私も思い浮かびません。

音楽以外の分野でいえば、いかに描写や設定が異なろうとも、同じト リックをもちいた推理小説を「創作」することは不可能だし、あるい は、デュシャン以後に便器を「芸術作品」として展示することも不可能 だ、というのに、それは似ているかもしれません。

 デュシュンには詳しくないのですが、その《泉》という作品も、それほど模倣したいほど魅力的には思えなかったりします。ケージ自身が《4分33秒》とそのコンセプトによるお遊び的作品で戯れたように、デュシャンの《泉》もそのコンセプトの延長による戯れしかできないのではないかと思います。

ことほどさように、おそらくは、1920年代初頭にシェーンベルク あるいはハウアーによって「十二音技法」が発見されていらい、現代音 楽においては、「アイディア」というものが、その作品の価値の大なる 部分を占めてきたのではないか。そして、もしそうだとすると、それに もかかわらず、現代音楽を作る作曲家が「アイディアではなく、音楽そ のものを聴いてほしい」的な発言をしたとき、その「音楽そのもの」と はいったいどこにあるのか──。

 20世紀音楽において、作曲家の関心がなにかしらの音楽理論、音を組織づける法則に関心をもっていったのは確かであると思います。音楽をただ楽しむのでなくて、勉強・研究したいということであれば、こういった「アイディア」がヴァイタルな知識になるとは思います。もちろんそれは、20世紀音楽に限ったことではありません。

現代音楽のコンサートに行って、「いったい、どこを(なにを)聴けば いいの?」と思うこともよくありますが、そんな素朴な疑問を、ぼく自 身もつことが多いもので、こんな問題提起をさせていただいたわけで す。

 とりあえずケージでしたら、音を聴く、がいちばんいいと思います。それ以上のこと、たとえば「この音は何を伝えようとしているのか」「何かメッセージがあるのだろうか」「何の感情を表現しているのだろうか」、あるいは「そもそもこれは音楽だろうか」といったような問いは、投げかけないほうが面白いかもしれません。[谷口昭弘]

|

« 白石和良の「闘う古楽&トラッド乱聴記」008──太田光子(2006/03/28) | トップページ | 具体から抽象へ、そしてふたたび具体へ──リュック・フェラーリの映画(2005/04/03) »

コメント

はじめまして。
現代音楽好きの素人からのコメントです。
先月、アメリカの現代音楽ウェブマガジン「ニューミュージックボックス」に寄稿されていた、アメリカの音楽評論家・歴史家・作曲家のカイル・ガンについての文章の中で、彼が非常に正しくケージを理解していたとのコメントがありました。
ガンは、1992年のケージの死に際して、
"Why did Cage use chance methods to compose, anyway? Forget randomness: it was a nonidea, a way of de-emphasizing what wasn't important. If I wanted to spell out a message for you using marbles, I'd line them up carefully in rows and curves. But if it were the marbles I were proud of and wanted you to notice, I'd toss them down randomly. Any arrangement on my part would imply that I wanted you to notice my intentions, not the marbles. Cage's chance music is that simple. As long as you don't expect it to be something else, it's less arcane than the Beatles. He wanted you to notice the sounds. But notes don't fall on the paper randomly unless you find a method to scatter them. Cage's chance procedures weren't the result of sloppiness, but a fanatical attention to detail." すなわちケージにとって(そして後世の聴衆にとって)重要なのは「アイディア」ではなくて、音そのものだったのだ、ということです。彼の有名なアイディアの数々は、余計な障害をとりはらって、純粋に音を堪能するためのツールにすぎないのだ、というようなことかと思います。引用が長くなってすみません!でもあまりにこちらのブログでの回答とぴったりだったもので…
(ご興味があれば、記事の全文はhttp://www.newmusicbox.org/article.nmbx?id=4565 に出ています)

これからも楽しみに読ませていただきます!

投稿: KN | 2006/04/14 01:51

KNさん、はじめまして。コメント、ありがとうございます。あらゆる手をつくして音そのものを聴かせようとするケージの強い意志が背後にはあったということなんでしょうか。ツール開発への飽くなき追求という側面も、きっとあったんでしょうね。おそらく聴き手の方も耳を開いて音を聴く行為を実践すればよいのでしょうけれど、演奏会場なり、既成の「ゲイジュツ音楽」のあり方を取り外すのが、案外難しいという感じがいたします。引用なさったパラグラフの前で、カイル・ガンは「哲学者としてのケージ」、「アイディア」といった世間の評価に対する問題点にも触れていますね。

投稿: 谷口昭弘 | 2006/04/15 10:04

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29830/9524219

この記事へのトラックバック一覧です: onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その15──音楽とアイディアについて〈その4〉:

« 白石和良の「闘う古楽&トラッド乱聴記」008──太田光子(2006/03/28) | トップページ | 具体から抽象へ、そしてふたたび具体へ──リュック・フェラーリの映画(2005/04/03) »