イギリス音楽の勁さとは──波多野睦美+野平一郎(2006/06/07)
◆歌曲の変容シリーズ第2回「子守歌のおまじない〜ブリテン島からの響き」
2006年6月7日(水)19:00 王子ホール
◎曲目
エリザベス朝の詩による歌曲
ロジャー・クイルター/それは恋人たち(詩:ウィリアム・シェイクスピア)
クイルター/もう泣かないで(不詳)
ジェラルド・フィンジ/来たれ、死よ(シェイクスピア)
アイヴァ・ガーニー/眠り(ジョン・フレッチャー)
チャールズ・V. スタンフォード/オレが小さなガキの頃(シェイクスピア)
エドワード・エルガー 歌曲集《海の絵画》より
海の子守歌(ローデン・ノエル)
入り江にて(キャロライン・アリス・エルガー)
珊瑚礁のある場所に(リチャード・ガーネット)
さまざまな詩人たち
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ/屋根の上の空
(ポール・ヴェルレーヌ/メイベル・ディアメア訳)
ヴォーン=ウィリアムズ/沈黙の真昼(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ)
アームストロング・ギブズ/5つの目(ウォルター・デ・ラ・メア)
クイルター/愛の哲学(パーシー・ビシュ・シェリー)
ピーター・ウォーロックの歌曲
子守歌(ジョン・フィリップ)
眠り(フレッチャー)
ライ麦が育つ頃(ジョージ・ピール)
ロビンはよい男(不詳)
ウィリアム・ウォルトン 歌曲集《3つの歌》(イーディス・シットウェル)
ダフネ
金メッキの格子を透かして
老フォーク卿
ベンジャミン・ブリテン 歌曲集《子守歌のおまじない》
子守歌(ウィリアム・ブレイク)
ハイランドの子守歌(ロバート・バーンズ)
セフェスティアの子守歌(ロバート・グリーン)
おまじない(トマス・ランドルフ)
乳母の歌(フィリップ)
+ + + + + + + + + +
おもに19世紀末から20世紀初頭──ヴィクトリア朝(1837〜1901)、そしてそのなごりを伝える時代に生まれたイギリスの歌曲たち。ふだんはイギリスものといっても、ダウランドなどルネサンス期の歌曲を中心に歌っている波多野睦美さんが、満を持して披露した、とっておきの一夜を堪能した。
+ + + + + + + + + +
いまから12年前、1994年にお茶の水のヴォーリズ・ホールで、波多野さんが歌った「シェイクスピアの夜」を聴いている。そのとき、波多野睦美という歌い手を知り、ヴォーン=ウィリアムズ、ロジャー・クイルターといったこの時代の歌曲をはじめて知った。
その夜は、前半がダウランド、後半が近代イギリスものだったように思う。前半はもちろん、盟友つのだたかしさんのリュート伴奏、そして後半は──あれ? またつのださんが出てきた、と思ったら、その肩に手をおき、導かれながら登場したのが、武久源造さんだった。たしか、その時代のピアノで演奏されたように思う。その夜ぼくは、武久源造という音楽家をも、はじめて知ったのだった。
波多野さんの「ホームグラウンド」ともいうべきダウランドを導き手として、“シェイクスピアつながり”で「知られざる近代イギリスの歌曲」を紹介する──というしかけ。それはじつによい試みだったと思う。じじつぼく自身、クイルターという耳慣れない名前の作曲家の音楽に魅せられ、さんざん苦労して(当時はAmazonなど、なかった!)エインズリーというテノール歌手がうたうクイルター歌曲のCDを手に入れた(ちょっとオペラ的な泣きの入る歌唱で、波多野さんの透明なうたとは印象が異なっていたけど)。
その後の波多野さんの、いわゆる古楽を中心とした活躍の軌跡は、もちろんここで語るまでもなく、ご関心のあるかたは波多野さんとつのださんの共著『ふたりの音楽』(2004、音楽之友社)を参照していただきたいが、ただ、近代イギリスの歌曲たちはその後、また彼女の宝箱に、そしてあの夜ヴォーリズ・ホールにいた聴衆ひとりひとりの記憶のなかに、ひっそりとしまいこまれたままとなっていたのだ。
「満を持して」と書いたのはそういう意味で、最近波多野さんは、つのださんの19世紀ギターの伴奏で、ヴォーン=ウィリアムズの《屋根の上の空》などを控えめに披露するようになっていたから、その日の近いことをなんとなく予想していたが、今回、近代イギリスの歌曲だけで一夜のプログラムを組んだ──というのは、やはり彼女にとって特別なことだったにちがいない。
+ + + + + + + + + +
さて、この夜、波多野さんの宝箱からひさしぶりにとりだされた歌たちの魅力を、どう説明したらよいのだろう。音楽的にいえば、旋法的な勁[つよ]さをもったメロディと、機能和声的でなく、さりとて線的対位法的でもないブロック(塊)的なハーモニーが、奇跡的に(あるいはむりやり?)同居している、といおうか──不思議な浮遊感は、ほんとうに独特なものだ。この夜のプログラムのなかでいえば、ヴォーン=ウィリアムズやウォーロックの歌曲に、それは顕著だ。さらにぼくの、個人的な感想というか直観にすぎないけれど、それはダウランドにも、そしてビートルズにも共通する、まさに「イギリス的」な特性だと思う。
ぼくはかねてから、英米のポピュラー・ミュージックのもつ勁さ(この漢字を使うのは、力強さというよりも、土に根をはった草のつよさをあらわしたいから)とは、そのメロディが和声的というよりも旋法的であること(つまり、機能和声から導きだされた人工的なメロディでなく、肉体から直接生まれたものだということ)、そしてそこに意外性のあるハーモニーが、溶けあうというよりも寄り添っていることからくるテンションにある、と思っているのだけれど、これはヴィクトリア朝の時代、当時の大衆音楽であったこれらの歌曲において、すでに実現していたのだ──というよりも、それがダウランドの昔から変わらない「イギリスらしさ」なのだろう(同じ時代でも、ドビュッシーなどのフランス音楽の場合は、旋法的なメロディにたいして線的な和声を添わせているため、ひじょうに繊細で高踏的な世界をつくりだしている。大衆的というよりはやはり人をえらぶ芸術だ)。
波多野さんも、関係者の方々もみな、「こんな地味なプログラムを……」とおっしゃるけれど、なかなかどうして、ポピュラリティを得る可能性のあるレパートリーだと思う。多くの日本人にとっては、ドイツ語やフランス語の歌曲は、うたうにしても聴くにしても、どうしても「言葉の壁」がつきまとうけれど、その点、英語ならば、少しはフレーズが心に直接響く瞬間もある。詩への距離が近いのだ。
+ + + + + + + + + +
いま心から望むこと──それは、これらの歌たちがふたたびしまいこまれてしまうことなく、波多野さんの主要なレパートリーとして、そして他の歌い手の方々にとっても新たなスタンダードとして、ひんぱんに演奏会でとりあげられること。そして、できることなら波多野さんと野平さんにはCDをリリースしていただくこと。お願いします。[木村 元]
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント