念仏の庶民性とは──国立劇場「念仏と題目──念仏」(2006/06/15)
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念仏を題材にした狂言《悪太郎》をマクラに、念仏法要を聴かせるという企画。日本人が心の深いところにもつ──信仰心といってしまうと大仰だが──敬いの気持ちのようなものが、あぶり出される、よい企画であった。
《悪太郎》、千五郎もさすがによかったが、悪太郎を演ずる七五三の酔態、後段の掛け合いのリズム感、最後に僧に弟子入りする殊勝さ──どれをとっても特筆ものの演技であった。その振幅の大きさに、演技がバラバラになりそうなところを、説得力をもってまとめていたのは、「悪太郎の根のまじめさからくるおかしさ」がうまく表現されていたことによるものだろう。
それにしても、狂言はやはりあの独特の京都訛りがいい。関東だったら、無声音にしたりはしょってしまったりするところを、律義に発音することで、もこもことしたユーモラスな抑揚がうまれる。なんともいえず律義で、それがたくまずして大袈裟で、おかしいのだ。
十夜法要のほうは、文字どおり「鳴り物入り」の、けっこう華やかなものだった。出演した式衆は在家の人たちだそうだが、平均年齢おそらく30〜40台くらいだろうか、かなり若くて驚いた。仏教が「南無阿弥陀仏」という念仏とともに、庶民のなかに浸透していることの証左のようで、興味ぶかかった。[木村 元]
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