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2006/06/21

ロマン主義者シューマンのたくらみ──COmeT+中井正子(2006/06/20)

060620_comet◇パフォーミング・エクスペリメント・シリーズIII/中井正子シューマン・シリーズIV
 2006年6月20日(火)19:00 津田ホール

◎曲目
 シェーンベルク/室内交響曲第1番 作品9
 シューマン/ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
 シューベルト(ヴェーベルン編曲)/ドイツ舞曲
 シューマン/交響曲第2番 ハ短調 作品61

◎演奏
 指揮:小鍛冶邦隆
 ピアノ:中井正子
 東京現代音楽アンサンブルCOmeT

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 現代日本の作曲家・指揮者のなかでも「理論派」として知られる小鍛冶邦隆と手兵COmeTが、ドイツ・ロマン主義の代表格であるシューマンを演奏する──ある意味、意外とも思われる組み合わせだが、小鍛治氏一流の音楽の徹底的な読み込みが、これまでにないシューマン像をあらわにしてくれたように思う。そのことを、以下につづってみたい。

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 シューマンの管弦楽作品には、「管弦楽法の欠陥」という指摘がついてまわる。端的にいって、「よく響かない」ということだろう。この夜の演奏を聴いても、「鳴らしにくそう」という印象はあった。ただ、それは小鍛治氏のプログラム・ノートによれば、「音像の細部の彫琢より、鳴り響くものとしてのより原初的な想像力が優先される事を考慮するべき」だということになる。つまり、指揮者やオーケストラのメンバーが、「作曲家の頭のなかで鳴り響いていたにちがいない響き」を徹底的に「想像する」ことがもとめられる音楽だ、ということである。

 それは、後半1曲めのヴェーベルン編曲によるシューベルト《ドイツ舞曲》にかんして、ヴェーベルンの厳格な書法と、ヴェーベルン自身が残したロマンティックな録音とのあいだの乖離について小鍛治氏が表現した「必ずしも記号的に演奏に直接的に変換出来ない、創造と再現の共犯関係」という事態にもつながる。シューマンの音楽、そしてそこから直接的に血をひくシェーンベルクやヴェーベルンといったドイツ・ロマン派の末裔たちの音楽に通底するのが、この「創造と再現の共犯関係」というコンセプトなのである。そして、ぼくなりに補足するならば、そこに「聴取」ということをつけ加えるべきかもしれない。「創造と再現と聴取の共犯関係」──そう、彼らの音楽は、「聴取」においても「想像力」を要求する。つまり、シューマンの管弦楽法はむしろ「鳴らない」ようにつくってあるのであり、そこを聴き手の想像力によって積極的におぎなうことを要求する音楽なのだ。

 さきに、「鳴らしにくそう」という印象があった、と書いたが、おそらくそれは各奏者にとって、音楽全体のなかで、自分のだす音がどのような役割をはたすのかが、容易に判断できない──ということではないかと思われる。音色的にも、和声的にも、自分のだす音がどうあれば、全体がうまく響くのか──「全体のなかの個の役割」を徹底的に意識させられる音楽、といってもいい。

 こうして、作曲家を頂点とするひとつのヒエラルキーが現出する。つまり、「すべてを十全に把握しているのは、神からこの音楽を託された作曲家だけ」という「作曲家至上主義」がそこから生まれる。作曲家はみずからの権威の象徴である錫杖を守るため、楽譜には個々の奏者の役割だけを記す。衆生(演奏者、聴衆)は、頭をしぼって作曲家の意図を忖度し「解釈」する──どの解釈がいちばん作曲家の意図に近いかを競う、現代につながるクラシック音楽のあり方も、こうしてできてきたのではないかと思われる。

 つい想像力をたくましくしてしまったが、もう少し妄想の羽をひろげることをお許しいただきたい。指の故障で演奏者生命を絶たれたシューマンが、職業作曲家として自立し、なおかつ当代最高の演奏家であったクラーラ・ヴィークと結婚するために、「作曲家至上主義」は、どうしても確立するべき自我の砦であったと思われるのだ。これはことシューマンにとどまらず、文芸におけるロマン主義に通底するきわめて知的な戦略であったのではないだろうか。

 この夜の演奏は、意図するとせざるとにかかわらず、徹底的にそれを暴きだすような容赦のないものと感じられた。

 作曲家、演奏家、そして聴衆の「共犯」的な想像力によって、ほんらい統合されるはずの音楽が、「生」のまま提出されているような演奏──きわめて断片化された楽想、機能和声の「かけら」ともいうべきモティーフが、脈絡なくつづられていくさまを見せられ、聴衆は作曲家の心のうちにひろがる荒廃した風景に慄然とするだろう。シューマンが晩年に病んだのが、現在「統合失調症」とよばれる精神疾患であったのも、それと無関係とは思われない。

 しかし、その光景の底にまで降りていってはじめて、音楽はぼくたちのの身体のなかで自律的に躍動しはじめる。外的になかなか「鳴らない」音楽が、内的に「響き」はじめるのだ。ロマンティックな「感情移入」の操作をへずとも、音たちがひとつの真実としておのずから統合される。聴衆が作曲家そのひとの思考を思考しはじめる瞬間──このとき、ぼくたちは作曲家をはじめて「理解した」といえるのではないだろうか。

 とくに、交響曲第2番第2楽章の、怜悧な覚醒と自他一体の熱狂との同居は、そのことをみごとに示す名演であった。[木村 元]

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