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2006/06/05

onblo talk series 01「現代音楽はおもしろい!」その16──音楽とアイディアについて〈その5〉

 木村です。谷口さんにご投稿いただいてから、はや1カ月半ほど経ってしまいました。

 いや、別にずっと考えこんでいたわけではなく、ここのところ公私ともに気ぜわしく、余裕がなかっただけなんですが……。

 そんなわけで、今回の投稿も、どっちかというとお茶をにごすていどのもので、すみません、さきに謝っておきます。

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 谷口さんや、コメントをつけてくださったKNさん(遅ればせながら、ありがとうございます!)がおっしゃるように、「ケージは音を聴けばよい」というのは、ほんとうにそのとおりだと思います。ぼくも、ケージの作品を聴くときには、やはり「音そのもの」を楽しみます。そのときぼくは、「ケージのアイディア」を楽しんでいるわけではないと思います。聴き手にとっては、「アイディア」は本質的なものではないことが、よくわかりました。

 ただ、いったん「聴き手」から「作り手」の側へ、視点を移してみます。「アイディアのことは考えず、音そのものを聴けばよい」と、それでもやはりいえるでしょうか? いいかたを換えてみましょう。「ケージは、聴き手に“音そのもの”を聴かせるために、いったいどれだけのアイディアを案出する必要があったのだろうか」──

 むしろ、「音そのもの」を聴かせてくれる作曲家は少ない、とぼくは思います。ベートーヴェンのシンフォニーを聴くとき、ぼくたちはそこに何を聴いているでしょうか? 音そのもの? いや、むしろ、あの機能和声的な「I−V−I」のカデンツをこれでもかと繰り返し浴びることにより、「期待→解決」エンジンが強制的に駆動され、隠されていた欲動が発現し、自己の内部に「神話」が構築されてゆくその過程を聴いている──とはいえないでしょうか?

 ケージは音楽から、そうした「神話化」「構造化」といった「機能」をはぎとることに、全精力をかたむけた作曲家であった、とぼくは思います。彼はそのために、素晴らしいアイディアをかずかず案出した。もしかすると彼は、音楽や作品をつくるというよりも、「音の聴き方」を創造したのかもしれません。それでもやはり、彼のそのいとなみを、ぼくらは敬意をこめて「作曲」とよびますし、彼が残したかずかずのアイディアを、「作品」とよぶのでしょう。それらの「作品」たちは、「音そのもの」へとぼくらが近づくことを助けてくれる、稀有な音楽だから。

 だから、ぼくはやはり、ケージにとって、そしてケージ以後のすべての作曲家にとって、「アイディア」というものが、その音楽の本質の一部である、と信じています。[木村 元]

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