音楽カフェ談義──音楽評論をめぐって(2006/07/21)
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「東京の夏音楽祭」の一環での座談会企画。ピアノの流れるカフェで、音楽談義──という趣旨だ。ただ、好きな音楽を肴に気心の知れた仲間で、というのなら、グラスもすすもうというものだが、なにしろテーマが「音楽評論」。はじめから悪酔いしそうな肴を前に、出演者たちはみなどことなく居心地の悪さをただよわせていた。
そもそも音楽祭を主催するアリオン音楽財団が毎年優れた音楽評論に贈る「柴田南雄賞」の応募者がこのところ年々減り、昨年は入賞者がいなかったという危機感のなかで企画されたイベントとのことで、「いま音楽評論は可能か」という、ある意味、その先のない究極の問いがのっけから提出された(コーディネイターは伊東信宏氏)。
興味ぶかかったのは、「ぼくは音楽評論を書いているつもりはない。文章を書いている」という小沼純一氏の発言と、その小沼氏の著作『サウンド・エシックス』をひきあいに出しながら、「自分が音楽評論をする動機は、最終的には倫理」という岡田暁生氏の発言の強烈なコントラスト。後者は、最近この種のシンポジウムには欠かせない議論誘発の名手、近藤譲氏の「音楽評論は他人(作曲家や演奏家など)の価値判断を使って、自分の価値判断をするいとなみであり、そこには倫理観があるべきだ」という発言に呼応したものだが、この「倫理」という観念が提出されたことが、いまひとつ焦点をしぼりきれずに終わったこの談義の、貴重な収穫のひとつだったかもしれない。
思うに、小沼氏の「文章を書くだけ」というスタンスもまた、じつはひとつの強烈な倫理的自意識を明確に示している。なにかひとつの倫理を声高に伝えるわけではないが、文章の彫琢といういとなみそのもののうちに揺るぎない倫理観をやどしており、その意味で作曲や演奏と並ぶような深さと価値をもつ。小沼氏が「750字で書けといわれて、ぴったり750字で書き、『それが仕事だから』といった」と紹介した谷川俊太郎氏のプロ意識は、だから小沼氏のそれと同じところに根ざした倫理観の表明なのだ。
倫理をさけぶ評論も大事かもしれないが、倫理を内に秘めた評論は、読者を確実に変容させる。
小沼氏のある意味芸術家に通ずる倫理観に対して、「つまらない音楽でも、もしかしたらすごい意味があるかもしれない、と思ってみると、ものすごくいい音楽に思えてくる瞬間がある」という片山杜秀氏の職人的倫理観もまた、片山氏が語るからこそ、ある種の凄みをもつ。「評論を書く」ことを、サラリと語りながら、これだけの迫力を感じさせる評論家を、いまぼくたちは幾人もっているだろう。
最後にないものねだり。音楽評論を原稿として受けとり、出版するエディターシップの意義が、もうすこし語られてもよかった(朝日新聞の吉田純子氏の参加はその意味で貴重だったが)。書き手の主観に普遍性をあたえるのは、エディターの「他者」としての視点だ。それなしに、音楽評論というものがなりたつだろうか。誇りよりもむしろ自戒をこめて、一編集者としてそれを強調しておきたい。[木村 元]
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コメント
昼間の打ち合わせが長引いて参加できず残念でした。このじつに茫漠としたタイトルはなんとかならなかったのかなあ。吉田氏は司会的な役割、というわけではなかったのですね。
投稿: beeswing | 2006/07/23 03:19
おひさです。またお茶しましょう。
進行役は吉田さんではなく伊東信宏さんでした。評論家がじつに6人、作曲家2人、新聞記者1人という参加者の構成がまず問題。やっぱり、それぞれの立場からせいぜいひとりずつ、それに音楽雑誌の編集者が入って、いま音楽雑誌がいかに壊滅的な状況かを語るべきです。
「いま音楽評論は可能か」っていうのは、評論家の立場からすれば根本的な問いかもしれませんが、むしろ「いま音楽評論は世の中から必要とされているのか」というほうがリアルでしょう。
投稿: genki | 2006/07/23 21:55
粗雑な物言いをしちゃうと、「音楽評論は可能か」という問いに立ち止まったまま食べていける人はいないわけで^^;、たしかに「必要とされているのか」という問いのほうがリアルですよね。自分が書いているものが「必要とされているのか?」とまったく考えずに文章を書く人はいない。ぼくとしては「喜ばれているのか?」のほうに少しシフトして考えたい気持ちですが。きちんと考えるなら、基本的な概念を問い直せる音楽学者も一人入れたい。
投稿: beeswing | 2006/07/24 13:45
岡田暁生さん、伊東信宏さんはまっとうな音楽学者ですから、「音楽評論とはなにか」をじゅうぶんに語れるはずですが、どうも話はそういう方向へはいかず、「音楽評論が需要供給ともになりたっている」という前提のもとに話が始まっちゃった感じでした。
あと、岡田氏、伊東氏、片山氏の3人とも朝日新聞の音楽評を担当している、というのも、うーむ、な感あり。朝日新聞のなかでは、ひと晩で終わっちゃう音楽というのは、美術や演劇に比して肩身が狭いそうですが、それはひじょうにローカルかつ特殊な事情であって、音楽だけをあつかう音楽雑誌のなかで、他の音楽情報にくらべて「音楽評論」が、「いらないよ」といわれている現状のほうが、よりリアルで切実でしょう。
ネットの話がまったくでなかったのも、ひじょうに不思議な感じでした。
投稿: genki | 2006/07/24 14:08