感情から宇宙の表現へ──茂木一衛レクチャー・コンサート(2006/08/13)
◆「宇宙の奏でるハーモニー──惑星の音階・地上の響き」
2006年8月13日(日)12:00 タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)
+ + + + + + + + + +
音楽を「感情の表現」ではなく、「宇宙の表現」としてとらえなおしたいという考えから、『宇宙を聴く──究極の環境芸術をもとめて』(1996、春秋社)などの著書を世に問うている音楽学者・茂木一衛氏(横浜国立大学教授)の講演を聴いた。場所はテーマにふさわしくプラネタリウム! コペルニクスやケプラーの時代の星空を眺めながら、当時の音楽を聴くという、夏休み感覚満天の好企画であった。
「ムシカ・ムンダナ」(天球の音楽)、「ムシカ・フマナ」(人体というミクロ・コスモスが奏でる音楽)──ここまでは「聴こえない」観念的な音楽──、「ムシカ・インストルメンタリス」(声や楽器など発音器官をもちいた音楽)という区分は、音楽史の本にはかならず説明されているが、こういうかたちで、具体的な音楽と同時代の天文思想が、つながりをもったものとして解説されると、ひじょうに説得力がある。
感情というものは音楽の──ひいては人間存在の──本質ではない。音楽とは、森羅万象を統べる法[のり]を感性=知性的に表現したものであって、感情は創造神がちょっと目を離したすきに、誰か(悪魔?)が人間の心にまぎれこませたものではないか。人間はそれを、神の目をぬすんで、ひそかに音楽をはじめとする芸術に埋めこみ、「これがわかる人だけが音楽を楽しんでよし」とする、排他的で秘教的な雰囲気を作りあげたのではないか──満天の星空を見ながら、そんな空想をふくらませた。
もうすこし私見を述べさせていただければ、以前ここでも書いたように、ぼくはバロックの芸術運動とは、「感情という記号の発明」といいかえることができるのではないかと思っている。それは、とりもなおさず「無神論」の誕生ともつながる事態だと思うのだ。つまり、「感情」という「神の関知しえない領域」を人間がみずからの心の裡[うち]につくりだしてしまった、ということだ。
演奏批評などでは「この演奏家はなにを表現したい(なにがいいたい)のか」がつねに問題にされるし、現代音楽の初演にはかならず作曲家による「自分はこんな思いを表現した」という解説がつくが、そんな人間の思いよりももっと根源的な「宇宙の秩序」を音があらわしているとすれば、われわれのすべきことは、もっともっと「音そのもの」に向かいあい、そのなかに耳には聴こえない「ムシカ・ムンダナ」「ムシカ・フマナ」を聴きとり表現することにつきるのではないか──そんなことを考えさせてくれる貴重なひとときだった。[木村 元]
▼茂木一衛の本
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント