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2006/09/12

皮膚感覚

【メモ】「blooming*sound*blog」に2004/06/01 10:32 AMに投稿した記事の再録。

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■皮膚感覚

 書籍の編集者っていうと、本ばかり読んで知識を収集して、どんな問題にもたちどころに解答を出す──と、こんなイメージをもってる人は、いまどきいないと思うけど(笑)、どっちかというと論理的、理性的と思われるのが、わが生業ではある。ほんとうはまるでそんなことはなくて、いま流行りのことばでいえば、「編集者は思いつきでものを言う」というのが真実。でも、思いつきでぶちあげたアドバルーンも、なんとなく論理的にみせてしまうのが名(?)編集者といえるかもしれない。

 そんな編集者がいちばん大事にしているのは、やはり「皮膚感覚」だろう。たとえば、初対面の人が「こんな本が書きたい」といって原稿、あるいは企画書をもってくる。それに目を通す。よくできた企画書だ。筋道も通っているし、結論も明快だ。ポピュラリティのあるテーマだからセールスも計算できる──ふつうだったらそこで「やりましょう!」となる。著者と版元の幸福なる出会い──のはずだが、ここで往々にして「皮膚感覚」が邪魔をする。「論理的には、理性的にはなんの問題もないはずなのに、どこか違う。違和感がある」という感覚。この感覚は論理的なものではないので、その場ではたいがい自分の「頭」が勝ってしまう。「論理」が「皮膚感覚」をねじ伏せるのだ。

 このようにして始まった仕事は、たいてい不幸な結末を迎える。いや、論理的に考えて万事オッケーな企画だから、大コケすることはない。むしろセールス的には成功してしまったりする。でも、編集者としては“不幸”なのだ。なぜなら、その仕事には「共感」がないから。結果的にはルーティンワークと化してしまうだろう。

 いったいどこに問題があるのか──いろいろなケースがあるけど、著者の真剣な思いがその企画書にこもっていない、というのが、ぼくが最初に感じる違和感のほぼすべてであることが多い。「目的」は別のところにある──たとえば金、たとえば地位、たとえば名声、たとえば……。その企画書には書かれていないことが、著者にとっては最重要のテーマだったりするのだ。もちろんそれは「頭」ではわからない。けど、「皮膚感覚」ではわかってしまう。この企画の「結論」がみえるのだ。その皮膚感覚を「論理」にまで昇華させることができたら、と切実に思う。きっとそれは、世の(平凡な)編集者のひとしく抱く願望だろうし、それができるのが名編集者なのだろう。

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 てなことを考えながら会社近くの書店を冷やかしていたら、『子供の「脳」は肌にある』(山口創著/光文社新書)という本が目にとまった。「あ、いい本。」──そう、「よさそうな本」ではない。ぼくのなかではもう結論がでているのだ。これぞ、皮膚感覚。著者の、あるいはこの本を作った編集者のエネルギーがぼくに届いたわけ。

 本のテーマは、子供の、それも乳幼児を育てるさいに、たとえば「思いやりのある人になりなさい」というようなことを、頭で教え考えさせるのではなく、スキンシップで実感させることが肝要であり、それによって、子供ばかりではなく親の側にも愛情が育つ、と説く、それだけでも子育て中の身にとっては有用な内容であったが、とりわけぼくに響いたのは、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」とする「ジェームズ=ランゲ説」という考え方だった。ある対象を見て視神経が脳に信号を送り、「悲しい」という感情が形成され、その結果、涙腺が刺激されて「泣く」、という流れが一般に考えられているけれども、じつはそうではなく、脳が対象を認知するより前に、皮膚や筋肉のレヴェルで収縮が起こり、「泣く」──その肉体の変化を脳が感知して、対象を定義づけ、「悲しい」という感情が形成される──ぼくなりのことばで言い換えてしまったが、ざっとこういう考えだ。そうだよな、そうじゃなきゃおかしいよな──などとうなずきながら読み進めた。おおげさにいえば、ぼくのような「皮膚感覚の人」にとっての福音だ!

 誤解をまねくといけないのであわてて付言するが、この著者は感情を肉体的な「条件反射」のレヴェルに引きずりおろしているわけではけっしてない。むしろ、身体のある限られたスペースに鎮座する「脳」という一器官が、すべての思考や感情を司っているわけではなく、(書名にも明らかなように)身体のすべてを覆う「皮膚」というものを通して、ぼくたちは「考える」のだということだ(もちろん皮膚だけでなく、さまざまな臓器にも「皮膚感覚」はある)。誤解を恐れずにいえば、「身体全体を脳とせよ」ということだ。

 触覚というのは面白いもので、あるものを触ると「でこぼこしてる」とか「ねとねとしてる」といった対象の認識と同時に、ほかならぬ自分自身の「手」をも感じている。触覚においては自他を「同時に」感ずることができるわけだ。視覚ではこうはいかない。視覚はもっぱら対象物(つまり他)を認知するのみである。

 先述の「思いやりのある人になってほしい」というのは、親ならばだれもが抱く願いだろう。他人を「思いやる」というのは、その人の「身になる」ことだ。その人の「皮膚感覚」がわかる、ということにほかならない。頭だけで論理的に考えても、その人の「身になる」ことはけっしてできない。かといって、感情に耽溺するのでもない。身体全体をつかって一生懸命「考える」のだ。そのときはじめて、感性と理性が合致して、ものごとが立体的に見えてくるのではないか。頭で発想したお題目でない、ほんとうの共生の社会はこういう考えからしか生まれないと思う。

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 最後にないものねだりをひとつ。子供はとくに「皮膚感覚」で生きている。だから、子供のうちにじゅうぶんにスキンシップをすることが大切、というのが、本書の主張するところで、一も二もなく賛成なのだが、教育という見地からすれば、もうひとつ必要なものがあると思う。はじめは「皮膚感覚」にひっかからない、つまりエネルギーをとらえられない未知の領域については、ある意味、盲目的な訓練も必要だということだ。

 算数の九々の記憶などその最たるものだろう。はじめは意味などわからなくても、とにかく覚えてしまって、問題を数多くこなしているうちに、いつしか数と数を掛け合わせることによって生まれるダイナミズムを感じられるようになる。そこからは「皮膚感覚」の出番だ。つまり、皮膚感覚よりも先に頭を鍛えたほうがよい場面もあるということ。言い換えれば、頭を使うことによって生まれる皮膚感覚もある、ということだ。これを否定してしまうと、エネルギーを感じられない問題を前にすると、きまって思考停止を起こす──頭が真っ白になってしまうような人間が育ってしまう。「皮膚感覚」と「論理的思考」──この両面をフレキシブルに使い分けてこそ、立体的な判断力を養うことができるのではないだろうか。[木村 元]

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