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2006/09/07

バッハが夢見た鍵盤楽器の未来とは──大井浩明クラヴィコード・リサイタル(2006/09/06)

◆大井浩明クラヴィコード・リサイタル「J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第2集(全曲)BWV870〜893」
 2006年9月6日(水)19:00 ムジカーザ

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 わずか60鍵──。このなかから、バッハは豊饒きわまりない音楽宇宙を紡ぎだしたのだ。

 バッハがもっとも愛奏した楽器といわれるクラヴィコードをもちいて、《平均律クラヴィーア曲集第2巻》の24曲全曲を演奏! 加えて、「バッハ自身が《平均律第1巻》自筆譜の表紙に描いた謎の渦巻き模様が、じつはバッハ独自の調律法を示している」とする新説にもとづいて調律された楽器で!! しかも2007年ヘンレ社より刊行予定の富田庸氏による校訂版を使用!!! さらに、奏者は「K-1ピアニスト」の異名をもつ閘門大師こと大井浩明!!!!──とくれば、なにをおいても駆けつけねばなるまい。

 全24曲(それぞれがプレリュードとフーガからなるので、48曲ともいえる)、2時間半を超える演奏会だったが、その価値あり。ひじょうに濃密な時間だった(当日のパンフに掲載された抱腹絶倒の「平均律=吉本新喜劇」論は、こちら)。

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 まず、《平均律第2巻》を全曲とおして生で聴く、という体験じたいが、稀有なものだ。「こんなにも厳しく、またこころに寄り添う親しさをもった音楽だったのか」と粛然とした。そのなかに、第19番イ長調のような、目の醒めるように若々しい音楽もあり、バッハの宇宙の広大さを体感した。

 また、クラヴィコードの音色。おのおのの調の“空気”を準備し醸成するプレリュードが終わり、フーガが単音で始まる。そのときの震えるような息づかいは、この楽器独特のものだ。まことバッハが愛した楽器であることが実感される。大井はその太い(!)指でこの扱いづらい楽器をたくみにコントロールし、むしろストイックといえる表現で、この楽器のもっともデリケートな美質を浮き彫りにしていた。

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Wtc 問題の調律はどうだったか?──残念ながらそれを云々できるだけの聴体験をもたないが、純正律などと較べ、むしろ穏当な響き(つまり、聴きなれた12等分平均律に近い)に聴こえた。

 考えてみればこれはあたりまえのことで、純正律ではこの作品のように、24の調で演奏することは不可能。だから「ほどよく調整された(wohltemperirte)」音律での調律が必要となる。素人考えでは、解決策は、12音すべての音程を均等にした「12等分平均律」しかありえないように思うが、バッハが「渦巻き模様」で暗号めかして示したとされる調律法は、それとは違うらしい。

 その調律法とは、この作品にのみ適用可能なものなのか、それとも平均律と同じように、すべての調性音楽あるいはすべての鍵盤楽器にあまねく適用できる普遍性をもつのか──。

 ぼくはどちらかといえば、後者の可能性をとりたい。バッハならば、平均律ではひとしなみに均一化されてしまう「調性格」をなんとか保ちながら、すべての調での演奏を可能にする調律法を追究するのではないか。そしてその研究の成果を、彼はこの曲集をもって世に問うたのではないか、と推測したいのである。

 そのひとつの傍証となりうるのが、この作品集のタイトルだ。《Das Wohltemperirte Clavier. oder Praeludia, und Fugen(ほどよく調整された鍵盤楽器。あるいはプレリュードとフーガ)》。後半の「プレリュードとフーガ」というのはよいとして、前半の「鍵盤楽器」というのは、考えてみれば奇妙な表題ではないだろうか。24の調による24曲で1巻をまとめるという、きわめて明確なコンセプトにもとづく曲集でありながら、どこにも「Album」とか「Buch」という「曲集」にあたる語がない。「平均律」という訳語が誤訳だとよく指摘されるが、それをいうなら「クラヴィーア曲集」のほうが、誤訳といわぬまでも「意訳」といわなければならないだろう。

 バッハ自身がこの作品集で示そうとしたのは、ひとつの閉じた「曲集」であるよりも、「鍵盤楽器」そのものの可能性であったのではないか。具体的にある新型のチェンバロのデモンストレーションのために作曲された、とする説もあるようだが、よしそうであったとしても、バッハはうたがいなく鍵盤楽器というもの全体の未来をみすえて、これら48曲を綴っていったことだろう。渦巻き模様がまさに表題の上に、それを飾るかのように描かれているのは、この曲集によって、あるべき鍵盤楽器の理想像を示し、その要諦となる調律法を示すという、バッハの意図のあらわれではないだろうか。[木村 元]


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