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2006/09/16

神と悪魔について

「メモ」「blooming*sound*blog」に2004/09/13 11:25 PM投稿の「神は非法則性に宿る」と2004/09/14 01:25 PM投稿の「2人の悪魔」を、2本まとめて再録。思えばこの時期、最高に忙しかったし、最低に落ちこんでいたのですが、そんななかで感覚が異常にとぎすまされていたようです。[genki]

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■神は非法則性に宿る

 忙しいいそがしい。忙しいのが続くと、だんだんなにも考えなくなる。そうするとどんどん忙しさが加速していって、忙しさだけで身体が自然に動いていくようになる。これはこれで、けっこうラクだ。つまり、なんにも考えなくなる。考えはじめると、ムカデが足の動かし方を考えるようなもので、とたんにつまづく。だから、忙しい渦中にはなにも考えないほうがいい──って、ほんと?

 数年前までは忙しいときは電車の中でも仕事をしていた。翻訳書の編集をしているときなんか、左手でゲラ(原稿を本の体裁にレイアウトした校正用のプリント)と原書と辞書をトランプ状にもち、右手に吊革と赤ペンもってすごい形相で校正していた。まわりからするとちょっと近寄りたくない風体だったにちがいないが、当人はけっこうこれを楽しんでいた。ひたすら「校正マシン」と化し、ほかのことはなにも考えずにそれに没頭していると、どんどんエンジンがかかってくるのだ。

 そんなときふと考えた。地獄ってこういう状態をいうんじゃないか。

 地獄は特別な場所じゃない。その人間のこの世での行為や思いが、そのままあの世につながって、あの世でも同じことをずっと続けている。電車の中で校正をしている自分が、突然の電車事故で死んだとしたら、やはり同じように校正を続けているのではないか、永遠に。自分が死んだことにも気づかないで。

 そのときから、できるかぎり電車の中では仕事をしないように心がけるようになった。昼休みも仕事しないでかならず1時間、喫茶店で過ごす。本を読んだり、楽譜を書いたり、ぼーっとしたり。でも、じつはこれもクセモノで、「電車の中では仕事をしない」「昼休みは喫茶店で過ごす」ということが、しだいに習慣化する。そうすると、それがまた「なにも考えない」を生み出す。それに気がつくと、「たまには電車で仕事してみるか」などとささやかな抵抗をする。

 人間を地獄につれていく悪魔は、いつだって近くにいて、なんとか人間を「なにも考えない」方向へと仕向けようとする。人間には向上心があるから、もっとたくさんの仕事をしたい、世の中をもっと便利にしたい、などといろいろなことを考える。考えているうちはいいけど、それをなしとげるために、どうしても「効率よく」とか「最小のエネルギーで最大の成果を」などと考えはじめる。これを考えることじたいは悪いことじゃない。それもまた向上心のあらわれだから。

 でも、ときとして「最大の効率化」とは「なにも考えないで決められたとおりに動く」ことに結びつく。つまり人間はみずからをロボット化する。そして、自分の考えた「ユートピア」を作るためにみずからの奴隷になっていく。

 思えば人間は、自分に対峙する大自然や時間の流れを、なんとか手なずけようと古来努力してきた。そして、世界の「法則」を見つけ出し、それを模倣することで、世界の主人となれるのではないかと夢想した。そして「法則」は科学万能の現代、ほぼ解き明かされつくしたかにも思える。しかし、それと同時に「1/fゆらぎ」などの「非法則性」をもまた、人間は発見してしまった。「バタフライ効果」といわれるように、すべての法則は放っておくとエントロピー増大のすえに、カオスをひきおこすこともまた人間は知ってしまった。

 でも、たいがいのことは、むりやりにでも「法則」にあてはめれば解決する。たとえば、ピアノのように1オクターヴを「むりやり」12等分すれば、たいていの音楽は演奏できる。円周率も「およそ3」としておけば、ふつう生活するのには困らない。あとは「考えなくてもすむ」のだ。

 しかし──悪魔が人間に考えないように仕向けているあいだ、神はどこにいるのか。

 12等分できない「純正律」の響きの中に、「3.1415926535...」と無限に続く円周率の小数点以下の数列の中に、1/fやカオスの中に、きっと神はいるのだ。人間が「面倒くさがらず、もういちど一から考えてみよう」と気づくのをだまって待ちながら。そしてその気づきのときの、心の底からの驚き、感動を、ぼくたちのために用意しながら。[木村 元]

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■2人の悪魔

 神は非法則性に宿る、と書いた。ならば、悪魔は法則性に宿るのか──そうではないだろう。

 世界を統べる法則を見つけだす──これは科学の大目的だ。科学者や数学者、物理学者は、この手に負えない複雑さを身にまとった世界を、ひとつの数式であらわせないか、それだけのために生涯をささげる。そして見つけだした数式をいかにシンプルで美しくシェイプアップするかに腐心する。

 彼らの頭の中にはそもそも「それが役に立つかどうか」という発想は、もともとない。彼らにとって重要なのは、自分の考えが「理にかなっているか」ということだけ。

 ひとりめの悪魔はここに、するすると巧妙に入り込んでくる。彼らにふっとよどんだ息を吹きかけ、その数式が「なんの役に立つのか」を考えさせはじめる。「理にかなっている」=「合理的」と似て非なる「功利的」という考え方が生まれる。「現実的で役に立てばいい」という考え方だから、美しさなどは脇へ追いやられる。悪魔はつまり法則を「つまみ食い」し、現実社会で生きていくための「マニュアル」を作り上げる。

 それだけではない。こんどはそのマニュアルを「いかに効率的に運用するか」を人間に考えさせはじめる。こうして、「役割分担」が生まれる。たとえば、「画期的な発明をする科学者」「それを商品化する製造業者」「その商品を世の中に広める商社」「その商品についての情報をひとびとに知らせるマスコミ」などなど。

 役割が分かれると、人間は自分の“持ち場”以外のことは考えなくなる。「餅は餅屋」──それぞれの専門家が考えているのだから、自分に与えられた役割だけをきちんとこなせばいい。それが「効率化」。「マニュアル」の効能だ。こうして、だんだんだんだん他の役割のことが理解できなくなり、おたがいにことばが通じあわなくなってくる。旧約聖書に描かれた「バベルの塔」が現実化する。

 人間はこの功利主義一本やりの世界の中で、だんだん窒息しはじめる。生きていくには便利なようでいて、いちばん大切な部分はブラックボックス化していて見せてもらえない。「ほんとうにこの生き方でいいのか」と不安が募る。不安をだれかと共有したくてもコミュニケーションがしにくい社会。人間性の疎外。

 そこにもうひとりの悪魔が忍び込む。「生きにくい世界。答えが見つからないのは、“法則”が難しいせい。法則を見つけるよりも“人間的に”生きることが大事」──。

 この悪魔の得意技は「論理の転倒」である。たとえば、釈迦が看破した真理、「人生は苦である」──これじたいはたんなる現実認識にすぎず、逆に「人生は楽である」といっても間違いではないのだが、「人生=苦」ととらえることにより、苦難の底にあるひとが人生の見方を転換し、足るを知る生き方をするようになって、結果、苦難から脱出することがある。これすなわち「一転語」──つまり、人生を一転させることばであり、もともと論理ではないのだが、悪魔はこれを用いて「転倒した論理」をでっちあげる。

 「人生は苦である」→「苦こそが人生である」→「苦しまなければ人間的でない」……と論理の飛躍・転倒・逆流を弄して、ねじ曲がった「受難礼賛」へと導く。キリスト教でも同じ構図がみられ、「イエスはだれよりも大きな苦しみを与えられたから、救い主なのだ」という論理が蔓延する。釈迦やイエスが明らかにした「法」と人間とのあいだに、悪魔はなに食わぬ顔でするりと潜り込む。そして、その法をさかさまにして価値を転倒させ、「真理」の衣をまとわせる。「法をきわめるのは弱き人間には難しい。釈迦やイエスは苦しまれた。ならば、お前たちもまずは苦しんでみよ。さすれば、道は拓けるであろう。それが人間にできる最大のことなのだ」

 悪魔はけっしてみずから法を説かない。いつでも、最高度に敬虔なる信者の顔をしている。

 これら2人の悪魔の業に共通するのは、人間をして「考えなくさせる」ことだ。ひとりは法則をつまみ食いして分断し、本来の流れや意味をわからなくさせたうえで、分断された断片を人間に手渡し、限定された役割を与えて、ロボットのように働かせる。人間がその状態に疑問をもちはじめたら、こんどは2人めの悪魔が登場し、最初の悪魔によってひきおこされた苦を苦しみながら“人間的”に生きよ、と説く。これでは逃げ場はないように思える──でも、ほんとうにそうだろうか?

 ぼくたちにできることがひとつだけある。つねに「そのつど考える」ことだ。この世界を統べる法則への畏敬や驚きを失わず、つねに根本的に考えること。そうすれば、1/fゆらぎやカオスなど非法則的と思われたことも、より大きく崇高な法則によるものであることが感じられるようになる。「考えること」こそが真に人間的なのであり、「考える人間」に悪魔は手出しができないのである。[木村 元]

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