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2006/09/25

編集(エディターシップ)が価値を生む。

 以下は大阪のいずみホールの会員誌『Jupiter』2006年10/11月号からの依頼で書いた文章です(当blogへの掲載にあたっては、いずみホールのご許可をいただきました)。「通算100号」を記念しての特集号ということで、片観音見開き3ページにわたって「音楽雑誌編集部レポート」が組まれており、拙稿はそのレポートに添えるかたちで掲載されています。「ネット時代のいま、音楽雑誌に求められる情報とは?」というお題でしたが、けっきょく「音楽は情報ではない」という持論を展開してしまいました(『Jupiter』編集長・森岡めぐみさんによるこの「編集部レポート」は、各雑誌のカラーがよく伝わる好企画。勉強になりました)。

 なお、当blog掲載にあたっては、校正時にスペースの関係で削除したもの(改行やちょっとしたフレーズ)を、若干復活させています。[genki]

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■編集(エディターシップ)が価値を生む。

 音楽の「情報」をめぐる情況はこの数年で激変した。ほとんどの情報は今やたちどころにインターネットで得られるし、CDやチケットだってその場で買える。演奏家のウェブログをのぞけば、楽屋裏を知ることもできる。情報を得るために音楽雑誌を買う人はもはやわずかだ。

 ある特定のライターの文章をめあてに雑誌や書籍を買う人はいるだろう。でも、彼らもまた自前のウェブサイトやウェブログをもつ時代だ。原稿料をもらって書くオシゴトとの線引きはしていても、ウェブだからといっていいかげんに書く人には、今のところ出会ったことがない。

 では、いま音楽雑誌や音楽書に求められることはなんだろう。エディターシップという言葉を手がかりに考えてみたい。

 ぼくは音楽書籍の編集をなりわいとしているが、つね日ごろ「著者の思想をいちど自らの身体に入れて変換し、普遍的なものとして出力しなおす媒体」でありたいと思っている。編集者とは著者の原稿を本にするだけの透明な存在ではなく、ひとりの他者として不透明であるがゆえに価値をもつのだ。

 音楽ライターがウェブで書く文章と、雑誌の編集部から依頼されて書く文章との違いは、つまりそこにある。情報量やスタンスの違い、ギャラの有無といったことよりも大きいのは、その文章がいったん編集者という不透明な他者を通して出てきたものかどうか、ということだ。原稿を編集者が読み、感動し、読者とわかちあうべきものと判断する──そのプロセスこそが、何にもまさる価値を生む。

 編集者の介在によって、情報にノイズが入ることを心配する向きもあろう。新聞やテレビが一般に信じられてきたほど公正なものではなく、しょせんは不透明なメディアであるとして、読者や視聴者のリテラシー(情報の読みとり能力)が問われるようになっている昨今、雑誌や書籍に隠されたノイズに敏感になっている読者も多いのではないだろうか。

 しかしそもそも音楽というものは情報ではない。情報だとすれば、霊感を得た作曲家がそれを五線紙に書きとめる時点で何らかのノイズが混入するだろうし、それが演奏されて聴き手に届く過程で、さらに純度が失われてゆくはずだ。でも音楽とは、作曲家の裡【うち】に、演奏家の裡に、そして聴き手の裡に、それぞれに姿は異なれど、純度100%、混じりっけなしの「真実」(いま流行りの言葉でいえば「クオリア」)を産みだす、ひとつの奇跡なのだ。

 この真実は、徹底的にプライヴェートな体験であるがゆえに、文章にすることはとても難しい。音楽学者、評論家、ライターとよばれる人たちは、おのおのの立場からその困難に立ちむかう文章のプロだ。そして、彼らのプライヴェートな思いにパブリックな価値をあたえること──それを文字どおり「publishing=出版」という。

 そうしたエディターシップこそが、ネット時代のいま、音楽雑誌や書籍にあらためて求められているのではないだろうか。[木村 元]

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コメント

「雑誌や書籍は編集者のものである」という認識が強いので、書いていらっしゃることはまさに理想であると思いますが、現実がどこにあるのかはよくわかりません。編集者と執筆者は少なくとも対等であるべきだと思いますが(もしくは編集者のほうが上)、初対面の人にいきなり「先生」と呼ばれた時点で信頼が崩れるような気がします。編集者は自信を持って、そしてもちろん確信的な中間スタンスを保持して、執筆者の文章に介入すべきだと考えます。編集者の立場は「レコーディング・プロデューサー」と似ているかもしれません。現場では責任者であるはずなのに、その作品でフロントに出てくることも正当な評価を与えられることもなかなかありませんよね。僕はもっと、書籍であれ雑誌の企画記事であれ、編集者=執筆者のチームという単位でクレジットされてもいいような気がしているのですが。
それにしてもクラシック音楽シーンは、執筆者に対しても音楽家に対しても遠慮しすぎで、それは考えようによっては相手をきちんと信頼していないということになるようにも思えます。

投稿: at.yamao | 2006/09/30 19:08

 コメントありがとうございます。

 「編集者=レコード・プロデューサー」というのは、井阪紘さんの著書に序文を寄せておられる遠山一行さんも、まさに同じ喩えをしていらっしゃいましたね。

 でもね、編集者が著者と並んで表に出るのがよいのかどうか──わたしは微妙なところだと思います。編集者はあくまでも「下支え」が仕事。表には出ないけれど、その存在によって、著者の文章の価値の、そこはかとない担保となるわけです。それが表に出たら、その編集者の仕事の価値を担保するのはなんだ、ってことになりはしないかと。ま、見るひとが見れば、わかりますけどね。

投稿: genki | 2006/09/30 22:11

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