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2006/09/05

微分化された身体性について──作曲家の音vol.4「近藤譲の音」(2006/09/04)

◆2006年9月4日(月)19:00 すみだトリフォニーホール小ホール

◎曲目
《ボンジン》──女声、アルト・フルート、コントラバスのための(1985)
  太田真紀(vo)、西沢幸彦(alt.fl)、溝入敬三(cb)、川島素晴(cond)
《帖》──任意の2旋律楽器のための(2000/日本初演)
  山本晶子(marimba)、村居勲(marimba)
《ダーティングトン・エアー》──オーボエと打楽器(1人または2人)のための(2000/日本初演)
  宮村和宏(ob)、山本晶子(perc)、村居勲(perc)、川島素晴(cond)
《撚[よ]りI》──7打楽器のための(1978)
  西沢幸彦(fl)、宮村和宏(e.hrn)、稲垣聡(elc.pf)、村居勲(steel drm)、
  佐藤紀雄(banjo)、甲斐史子(vla)、溝入敬三(cb)、川島素晴(cond)
《彼此[おちこち]》──チェロとピアノのための(1993)
  寺井創(vc)、稲垣聡(pf)
《ロータス・ダム》──メゾソプラノとヴァイオリンのための(2002/日本初演)
  太田真紀(vo)、花田和加子(vn)
《ルイス・ズコフスキーの4つの短詩》──メゾソプラノと4楽器のための(2006/「作曲家の音」委嘱作品)
  太田真紀(vo)、西沢幸彦(alt.fl)、甲斐史子(vla)、山本晶子(perc)、
  佐藤紀雄(elc.gt)、川島素晴(cond)
《イン・メディアス・レス》──ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとピアノのための(2002)
  花田和加子(vn)、甲斐史子(vla)、寺井創(vc)、
  稲垣聡(pf)、川島素晴(cond)

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 作曲家・川島基晴がプロデュースする現代音楽作曲家個展シリーズ「作曲家の音」。2005年7月「松平頼暁の音」、同11月「ヴェーベルンの音」、2006年7月「西村朗の音」につづき、vol.4として川島の師でもある近藤譲が登場することとなった。

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 以前このblogで、近藤譲の音楽の「身体性」について、少しだけ書いたことがある。引用しておこう。

……近藤譲さんの作品には……「身体性への否定あるいは懐疑」とでもいえるような態度が感じられます。……近藤作品は、演奏からすべての身体的要素(たとえばヴィブラートや自然な呼吸)をはぎ取り、また音楽の構造が本来的にもつ「磁力」さえも相対化しようとします。その結果、「音自体」とでもいえるような、生々しい事象が、厳しさと静謐さをもって提示されます。

 ここで「身体性の否定あるいは懐疑」と書いている、まさにその特質を、ぼくはこの夜、まぎれもなく「身体性」として感じとっていた。この逆説はどこからくるのか、考えてみたい。

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 近藤譲の音は静かだ。もちろん音量の問題ではなく、佇まいが、といったらいいのか──押しつけがましさがなく、清潔だ、ということである。

 現代音楽の場合、「清潔」というと、ある種の無機的なイメージと結びつきがちだから、あわててそれを打ち消しておこう。近藤の音は、じつはすぐれて身体的だ。むしろ、この「身体への信頼」ということが、近藤の音を他の同時代の作曲家たちと隔てる、もっとも大きな要素ではないかとさえ感じられた。

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曲全体の成り行きよりも個々の楽句に、楽句よりも個々の音に興味を惹かれる。つまり、音楽全体よりも、音楽の各瞬間に興味の中心がある。
──《イン・メディアス・レス》へのプログラム・ノートより

 けだし、近藤の創作姿勢を端的にあらわす言葉というべきだろう。ただ、個々の音、楽句が「有機的に」結合したものが、全体としての音楽ではないのか。身体の各器官、細胞が身体そのものをかたちづくっているように──。

 けれど、そもそも身体とは、人間存在とはなんだろうか。ひとつひとつの細胞や臓器が、全体から強制されることなく、個性におうじたふるまいをし、自由に結びつきあい、情報の伝達をしあった結果、おぼろげに浮かびあがってくる総体──それがわれわれの身体にほかならない。

 近藤にとっては、音楽も同じだ。あらかじめ予定されたプログラムに、個々の音が強制され統御されるのではなく、まず個々の音への真摯な聴きとりがあり、それゆえの驚きがあり、それぞれの音のふるまいを見つめる謙虚なまなざしがある。その静かないとなみが、こうしてつくられてゆく音楽に、静けさ、清潔さをもたらしている。

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 近藤は近年、さまざまなシンポジウムにパネリストとして招かれることが多く、議論の「活性化」「調停」に才能を発揮しているが、それは上に述べた作曲家としての姿勢と、直接に関係することのように思われる。暴力的に一元化しそうになった議論、二元論的な対立におちいった議論を、さりげなく相対化し、複数の視座を提供することによって、多元的・多層的な結論へと導くわざは、だれにも真似できない、本人にとってもたくまざるものだろう。いわゆる「論客」というイメージではないが、めだたないけれども議論に深みをあたえる貴重な存在だ。

 そのパーソナリティは、創作のうえでも遺憾なく発揮される。音楽が全体として、ひとつの方向へと突きすすんだり、2つの対立する方向性の対立が第3の価値へと止揚したりする弁証法的なあり方は、近藤作品とは無縁だ。彼の細部へのまなざしは、全体最適の結論からあらかじめ設定されたマトリックスを、徹底的に拒絶するところから始まる。その意味では、彼は身体という概念をも拒否するだろう。「音楽」「身体」といった実態のない神話を拒否し、楽句へ、音へ──すなわち臓器へ、細胞へと降りていこうとする彼のまなざしは、だから必然的に微分的で、差異を重視するものとなるだろう。

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 プレトークでの「似たような曲が多い」という川島のツッコミにたいして、「イマジネーションの貧困」とか「ヴァラエティ豊富な作品のなかにおけば似たような曲が多いようにみえるし、自分の作品だけで並べれば違いもみえてくる」と韜晦をもって返していた近藤だが、今回の個展を通して聴いて、「似たような曲をならべて、そのなかの微妙な差異を聴きとる」ことこそが、近藤作品を聴く醍醐味なのではないか、という感想をもった。

 「音楽」という全体志向の概念をはぎとられて裸になった音の連続を聴きつづけるうちに、聴者はひとつひとつの音どうしの「差異」に目を向けはじめる。作曲家にとっては、「1970年代の半ば、私は、非常に音色の異なる楽器のアンサンブルに強い興味を引かれていた」(《撚りI》へのプログラム・ノート)、あるいは「私はいつも、コントラバスのハーモニックス音と、アルト・フルートの低中音域、そして女声の低中音域という3つの『楽器』の音色の間に、微妙な類似性と差異を感じている」(《ボンジン》へのプログラム・ノート)と書かれるように、楽器特有の音色どうしの差異から、ある意味楽器の特性のはっきりでない“中途半端な”音域での音色の共通性と差異まで、「差異」そのものもまた時代によって微分がすすんでいるのだが。

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 音の細部に分け入って感じとられた「差異」は、ひとつの「驚き」をもたらす。そう、近藤作品の最大の魅力とは、瞬間的にもたらされる「驚き」だ。それは、発見した「差異」をただ提出するだけではなく、作曲家みずからが心底から「驚いている」がゆえに聴衆に伝わる、一種の感動である。自分の掌を顕微鏡で見る、内視鏡で胃の中や腸の壁を見る、手術で取りだされた腫瘍や臓器を見る──そうしたときにわれわれが禁じえないのは、自分の身体がじつはまったく見知らぬものだと感ずる、その驚きだ。その驚きのまえに、「身体」という上位概念は、絵空事と化す。

 そしてそれは「音楽」の場合だって、まったく同じことだ。ひとつひとつの音にたいして、顕微鏡で見るかのように細かく分け入って、はじめて見えてきたなにかに心底驚く──そこから近藤の創作は始まるのではないだろうか。

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 以前このblogで「身体性の否定あるいは懐疑」と評したことが、逆転して「まぎれもない身体性」として感じられる。それは、聴者としてのぼくのなかで、近藤作品のひとつひとつの音の「微分」が、それだけ進んだということかもしれない。「微分」という行為そのものを「身体性の否定あるいは懐疑」ととらえることもできようが、そうすることではじめて見えてくる細部=見知らぬグロテスクな自分をも、自己としてひきうけるのは、やはり「身体への無条件の信頼」であろうから。そして、その信頼は、「音楽への信頼」と厳密に同義のものとなる。

 細部への揺るぎのない信頼にささえられた音楽は、構築されたヴァーチャルな時間=神話を聴者に押しつけることなく、ひとつひとつの時間=内実をたたえながら、静かに佇む。聴者はその細部へと分け入り、虚心坦懐に作曲家が感じた驚きをともにすることで、言いようのない幸福につつまれる。それは、一元論で聴者を巻きこんでゆく激しさや、二元論によって高みへと止揚される崇高さをもつものではないが、それだけに深く深くしみこむような感動をともなう音楽なのだ。

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 演奏については、各演奏者が近藤の、そして指揮者・川島の意図をくんで、「音楽という構造体」をなり立たせる部分としてではなく、ひとつひとつ十全たる価値をもつ「音」として、本質にせまった演奏をしていたと思う。

 とくに、《ダーティングトン・エアー》におけるオーボエ、《ルイス・ズコフスキーの4つの短詩》(エレクトリック・ギターのアンプ不調のために、終演後にもういちど「初演」がおこなわれた)におけるメゾソプラノは、点描的なその他のパートのなかにあって、ひかえめでリリカルな近藤の「うた」をじゅうぶんに聴かせてくれた。

 ひとつだけ、《彼此》でのチェリストの息の音や楽譜をめくる音が、とても気になった。演奏家の身体性がこのようなデリカシーのないかたちで発現されてしまうことは、とくに上述のように「身体性」そのものを精緻に音楽化している近藤作品の場合、ぜったいに避けるべきことではないだろうか。[木村 元]


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