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2006/10/26

瞬間の技芸──中井正子(2006/10/25)

Nakai061025◆中井正子 ドビュッシー/ピアノ作品全曲演奏会II
 2006年10月25日(水)19:00 浜離宮朝日ホール

◎曲目
 第1部:初期小品集
  ボヘミア舞曲
  マズルカ
  夢
  ダンス
  バラード
  ロマンティックなワルツ
  夜想曲
 第2部:《前奏曲集第1巻》
  デルフィの舞姫
  帆
  野を渡る風
  音と香りは夕暮れの大気に漂う
  アナカプリの丘
  雪の上の足跡
  西風の見たもの
  亜麻色の髪の乙女
  とだえたセレナード
  沈める寺
  パックの踊り
  ミンストレル

◎演奏
 中井正子(pf)

 + + + + + + + + + +

 ドビュッシーは瞬間の芸術だ。一瞬のうちに生起する音の生命が、次の一瞬をひきよせ、あるいは生みだし、瞬間瞬間がまるでひとつひとつの球体として完結しながら、それらが集まって、完璧な全体をかたちづくる。細部が全体に奉仕したり、全体が細部におもねることのない、理想的な技芸のありかただ。

 + + + + + + + + + +

 中井正子にとって2度めの全曲演奏会シリーズの第2回は、最初期の小品(1880〜1892)と円熟期(1909〜1910)の代表作がならんだ。

 全体をとおして聴くと、ドビュッシーにとって、音楽、そして生とはなんだったのかということが、透けて見えてくる。

 かんたんにいってしまうと、初期の音楽においては、瞬間から瞬間への移りかわりの興趣に重きがおかれる。ふとしたひょうしに陽射しが雲間から顔をだしたり、水面の輝きが瞬間瞬間でまったく相貌をかえたりするのを見ているような歓びが、そこにはある。移りかわりがあれば、そこに時間が生じる。聴き手はドビュッシーとともに目を細め、光の戯れに身をゆだね、時をすごす幸福をあじわうだろう。たとえば、《ダンス》やアンコールで演奏された《ベルガマスク組曲》にみる音の流れそのもののしあわせといったら!

 逆に、後期にはいってドビュッシーは、ひとつひとつの瞬間を、冷徹にみつめなおしているかのようだ。初期作品に感じられた無条件の幸福感ではなく、生命の一瞬にこめられたあまりのかけがえのなさへの驚き、あるいは畏怖とでもいうべき感覚に、作曲家はうたれ、しばし我を忘れて立ちつくす。《沈める寺》の繊細で重厚なハーモニーにも、《亜麻色の髪の乙女》の時間が宙づりにされたような感覚にも、それは感じられる。

 中井のピアノは、この驚き、畏怖をよく表現している。細部には心ゆくまで没入しながらも、音楽がつくりだす時間に耽溺しない潔さ。それはそのまま、作曲家が感じていた歓びであり、無常感であり、孤独であったことだろう。1度めの全曲演奏会シリーズは体験していないが、その間に中井自身がかさねた年輪とともに、作曲家への真の共感が醸成されていたにちがいない。

 + + + + + + + + + +

 しかし、そうした細部への没入に満たされながら、この作曲家の音楽は、なんとみごとな完全を実現していることだろう! ことばの厳密な意味どおり、かれは芸術を生き、みずからの生をひとつの形式として全うしたひとだった。[木村 元]

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 ※当日のプログラムと同じ選曲




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