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2006/10/13

武満徹は「耳」である──オーケストラ・プロジェクト2006(2006/10/12東京芸術劇場)

オーケストラ・プロジェクト2006「武満徹に捧ぐ」
 2006年10月12日(木)18:00〜プレトーク/19:00〜コンサート
 東京芸術劇場大ホール

◎曲目
 武満徹/弦楽のためのレクイエム(1957)
 小鍛冶邦隆/オーケストラのための《愛の歌III》(2003/2006改訂初演)
 山内雅弘/サクソフォーン協奏曲《風の肖像》(2006初演)
 森垣桂一/ヴァイオリン協奏曲(2006初演)
 中村滋延/《ラーマヤナ──愛と死(交響曲第4番)》(2006初演)

◎演奏
 小鍛冶邦隆指揮 東京交響楽団
 須川展也(sax)、清水高師(vn)

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 武満徹は“耳”である──。初演から半世紀たった古典──《弦楽のためのレクイエム》を聴きながら、そんなことを思った。

 武満の、とくに初期の音楽を聴くとき、わたしは奇妙な感覚にとらわれる。音楽作品というものは、作曲家の内面を音という素材をもちいて表出したり、再構成したり、とにかく、なんらかの外向きのベクトルをもっていると思うが、しかし武満の初期作品には、逆に内向きのベクトルを感じることが多い。「表出する」「音をだす」という外向きのことばではなく、「聴く」という内向きのことばのほうが、武満にはふさわしい。

 もちろん、聴くことは作曲家のだいじな仕事だ。なにかを外へ表出するにしても、たとえば周囲の事象に聴きいったり、自分の内面に耳を傾けたり、つまりインプットがなければアウトプットはない、ともいえる。

 でも、武満に感ずるのは、そうした一般的な作曲家としてのありかたを超えて、「聴く」という行為がそのまま「作曲する」に直結した、稀有な存在だったということだ。

 武満も、世の作曲家と同様、さまざまなもの・ことに耳を傾けただろう。いや、外部をとらえる耳の鋭さは、きっと並ぶもののないほどであったにちがいない。そして、かれは物音を聴きとるだけでなく、沈黙を聴くことに、より多くの努力をかたむけたと思える。

 《弦楽のためのレクイエム》は、そうしたかれの「聴く行為」がそのまま音として結晶した、奇跡的な作品だ。「作品」ということばにも抵抗がある。これは純粋に「行為」なのだ。かれはこの音楽をもって、沈黙を聴き、みずからの裡に懸命に耳をすます。それゆえ、たとえば冒頭のあのメロディとハーモニーは、「メロディ」「ハーモニー」ということばによって記号化され外化されることなく、そして、何回再演されようがそのつど、ただ一回きりの個別的かつ純粋な行為として現前する。

 1959年に来日したストラヴィンスキーがたまたまこの曲の録音を聴き、「誠実」で「厳しい」と評したのは有名なはなしだが、その誠実さ、厳しさとはつまり、みずから誠実で厳しい「耳」となり、自身の裡に生まれるどんな幽かな響きをも、安易に記号化・外化させるにまかせず、ただ「聴く」という行為そのものを音として紡ぎつづけた結果としての作品にのみ、許される形容であったことだろう。それがいかに困難なことか、とうぜんのことながらストラヴィンスキーはよく知っていたのだ。

 この武満の「耳」は、作曲家自身に向けられているばかりではない。それはまったく同じ厳しさをもって、われわれ聴き手へも向けられている。この音楽を、「メロディ」「ハーモニー」「アンサンブル」「調性」「西洋音楽」「早坂文雄」などという記号をもって、安易に理解しようとする精神を注意ぶかく拒みながら、作曲家の裡にいままさに生まれようとする音を、同じ静けさ、孤独をもってみずからの裡に産みそだてることのできる、否、そのようにしてしかこの音楽と対せない聴き手だけにかれは向き合い、そうした聴き手が「聴く」という行為としてそれぞれに生みだす響きに耳かたむける。

 この世から去って10年をへてなお、武満徹はそのような厳しく、しかし同時にかぎりなく親密な「耳」として、聴き手のこころに生まれる響きに耳をすましている。武満は生きているのだ。

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 この夜演奏されたその他の作品は、どれもある意味調性的といっていい聴きやすさをもった作品だった。「協奏曲」「交響曲」といった、古典的な規範をタイトルに冠した作品がならんだのは、なにを象徴しているのだろうか。

 そのなかでは、全曲の指揮もつとめた小鍛冶邦隆の作品が特筆される。冒頭の武満作品とはまったく性格を異にする饒舌なコラージュ的作品で、とくに開始直後のアンサンブルに、はっとするほどの美しい瞬間が散りばめられていて、後半の耽美的なメロディ、活発なガーシュインの引用とともに、知的で諧謔的な愉しみに満ちた作品だった。[木村 元]

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コメント

オーケストラ・プロジェクトを早速取り上げていただき有難うございます。
ところで今月29日の福岡の音楽学会全国大会の武満パネルでも、《弦レク》を話題にするつもりです。
しばしば指摘されるプリミティヴな3部形式というより、(近代ヨーロッパ風に言えば)AABAのバール形式によるこの作品は、木村さんがいうように、聞く行為(あるいは鍵盤から探り出す響き)に沈潜した音楽であり、そこにヨーロッパ音楽の修辞的な形式の不在を指摘するの無意味とも思える程、ヨーロッパ音楽と異質なものです。あるいは自己流儀の模倣によるものといってもよいのかもしれません。

演奏という点からみると、拍節化=定型的韻律を拒む(あるいはそのような訓練を受けていない)破格の旋律法・和声法は、むしろ日本の大衆芸能にみる演歌的なこぶしや節回しに近いものがあります。私が意図的にそうした表出をとらずともオケは本能的にそうしたものに過敏に反応するものです。
音楽形式としては単純に見える(聴こえる)としても、この作品の構文法はたしかに異例のものです。
こうした出自のマージナリティーを、巧みに詐称することで後の武満の音楽がありえたとも言えるでしょう。

投稿: kokaji | 2006/10/13 20:13

コメントをありがとうございます。

ご解釈にとても納得しています。たしかに武満の「出自のマージナリティ」は、かれの音楽のオリジナリティを担保するものだと思います。

聴く行為から音楽が生まれるさまは、ポピュラー音楽の分野ではよくみられるもので、それもまた武満の音楽のある種のポピュラリティにつながると思います。ただ、その聴く行為の徹底により、聴衆ひとりひとりの個別的な聴く行為と、根底でつながるほどの普遍的な強度をもちえたことが、武満の音楽の魅力といっていいのではないでしょうか?

投稿: genki | 2006/10/13 20:23

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