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2006/10/30

波多野睦美+つのだたかし「J.D.の音楽」(2006/10/26)

◆「J.D.の音楽」
 2006年10月26日(木)19:00 ハクジュホール

◎曲目
 ジョン・ダウランド
  少し休んでくれ
  真実の愛よ
  眠ったふりのきみ
 ジョン・ダニエル
  悲しみの調べは
 ジョン・ダウランド
  ファンシー*
  思いがとげられなかったら
  愛しい人よ もし君が
 ジョン・ダニエル
  リュートが喜ばせるように
  やめておくれクロリス
  どうして君は
 ジョン・ダニエル
  ロザモンド*
 ジョン・ダウランド
  ハンソン夫人のパフ*
  ファンシー*
 ジョン・ダンの詩による
  賛歌(曲:ジョン・ヒルトン)
  流れ星をつかまえてこい[朗読]
  恋人よ(曲:不詳)
  蚤[朗読]
  恋人よ もう少しここにいて
 ジョン・ダウランド
  晴れても曇っても
  あの人が泣いていた
  時よ しばらく立ち止まれ
 *……リュート・ソロ

◎演奏
 波多野睦美(メゾ・ソプラノ)
 つのだたかし(リュート)

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 まず、タイトルがいい──「J.D.の音楽」。17世紀後半から18世紀前半、エリザベス朝からジェイムズ1世朝のイングランドに活躍した3人のJ. D.──ジョン・ダウランド、ジョン・ダニエル、そして詩人ジョン・ダン──による音楽でひと夜を構成するという趣向だ。

 作曲家の個展的な演奏会は数多いし、詩人に焦点をあてたプログラム・ビルディングも最近はめずらしくなくなった。しかし、それらとはどこかひと味ちがう──「J.D.」。

 作曲家として、詩人として、時代を超えて永遠の名望をえたスーパーマンではなく(もちろん、3者ともに、21世紀の異国でとりあげられるにあたいする芸術をのこしたわけだが)、あくまでも時代の子として、イングランドの名もなきひとびとのあいだに埋もれながら、笑い、泣き、歌い、生きた、なかば匿名の存在としての「J.D.」たち。そのうつつにして夢のような存在感を、うまく掬いあげた絶妙のタイトルではある。

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 特筆すべきは、はじめて聴いたジョン・ダニエル。とくに最初に歌われた《悲しみの調べは》が素晴らしかった。歌詞そのものが音楽を題材とし、曲づくりとシンクロする技巧的な音楽。リュートがマイナー・コードを奏でているのに、歌はメイジャー・スケールをたどっていたり、2小節くらいの単位で、とめどなく転調がつづき、いったいどこへ連れていかれるかわからないような浮遊感をかもしだす。17世紀にこんなに前衛的な音楽が!と驚きを禁じえない。

 また、ジョン・ダンの詩によるコーナーでは、波多野睦美の朗読が2篇聴けて、このうえのないしあわせ。歌だけでなく、このひとの語りを愛するファンは、じつは数多いのではないか。

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 もうひとつ、いまさらながら気づいたことだが、ハクジュホールの照明はじつに素晴らしい。ステージの上の間接照明をうまく使いながら、光をやわらげ、客席と舞台とが溶けあうかのような夢幻の雰囲気をつくりあげる。そういえば、ステージ上にも客席にも天井にも、とがったところがほとんどない。全体が曲線でデザインされた空間は、古楽のメッサ・ディ・ヴォーチェ(アタックをつけず、フレーズの中ほどをふくらませる表現法)の音楽を響かせるに、まことふさわしい。

 そういえば、波多野睦美の歌唱には、音が皮膚に当たる“痛さ”がまったくない。じつはメッサ・ディ・ヴォーチェの極意とはこれではないか。呼気を放つというより、大気のなかから、あるいは客席の聴き手の身体のなかから、うたをそっと引きだす(そういえば、彼女は息を吐いているというより、吸いながら歌っているようにもみえる)。だからこそ、彼女のうたはぼくたちの身体に、同じ浸透圧で染みいり、同化するのかもしれない。[木村 元]

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