絵を描くように音楽を作ることについて
【メモ】
以下の文章は、数年前に書いたものですが、改訂をほどこして、再度アップすることにしました。
こんな文章を書いたのは、昨今の「視覚優位」の風潮にもの申したいという気持ちが奥にありました。音楽においても、「聴覚」でとらえたものを「視覚」へと変換するスピードの速さをもって、「音楽がわかる」とされる、そうした傾向が確実にあります。いちばんむずかしいことは、「ただ、ありのままを聴く」ことなのに──。
この問題については、またあらためて論じたいと思っています。[genki]
(1)
数年前の話だが、アップルのサイト(eNews Web)でミュージシャンの細野晴臣氏がインタビューにこたえて、「Macによって、絵を描くように音楽が作れるようになった」と言っていた(まだ記事は残っているようだ)。
ぼくもMacを使って音楽をつくっているから、この感覚には共感する。でも、自分にとってはそれは「マイナスの意味」をもつ感覚である。つまり、「Macによって、絵を描くように“しか”音楽が作れなくなった」と、ぼくは感じているのだ。
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うまい下手の差はあっても、だれにでもそれなりに絵は描ける。だが、だれにでも音楽はできるか、と問うてみると、それはかなり無理があるかなと思 わざるをえない。昨今は猫が鍵盤のうえでじゃれても「これこそ芸術!」といってもらえる時代だから、その意味では「だれでも音楽ができる」はほんとうかも しれないが、「音楽らしい音楽」をするには、やはりそれなりのスキルが要る。音を発することはだれにでもできても、それを「音楽」にするには、それ相応の 面倒な手続きがいるということだ。細野氏はそのことをふまえて、「Macがあれば、絵のように音楽が作れる」と言っているわけだ。
あえていえば、絵を描くにはスキルが必要ない。「自分の眼に見えるもの(あるいは自分の心の眼に見えるもの)を見えるとおりになぞる」ことでなん らかの絵は描ける。もちろん、うまい下手の差はあるが、2歳の子供でも「だれかの顔」は描けるし、それなりに「ああ、顔を描いた(つもり)なんだな」とい うことは、見ていて了解できる、ということだ。
ではなぜ、絵を描くことはこんなに簡単なのだろうか。それは、視覚がとらえたものは、かならず脳の中で「ある意味をもった情報」に変換されるから だ。たとえば、犬があるいているのを見て、それを絵に描くとする。そのときぼくの頭の中では「四本足」とか「白と黒の斑」とか「凶暴そう」とかいったさま ざまな情報が瞬時に処理されている。スキャナが画像を読み込んで、いったんデジタル信号に変換してからパソコンに送るようなものだ。ぼくが筆をとって犬の 絵を描きはじめるとき、デジタル信号はふたたびアナログのイメージへと変換される。「四本足」「白と黒の斑」「凶暴そう」などの犬のもつ属性が、ぼくなり の技術でもって紙の上に表現される。描いているあいだに犬が動いてどこか見えないところへ行ってしまっても、描けなくなることはない(逆にいうと、犬の動 きを描くことはだれにもできない。できるのは「さも動いているかのように描く」ことだけだ)。
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音楽の場合、たとえば聞こえてきた音楽をそのまま真似て歌うことは、かなりの技術が必要だ。「そんなこと、かんたんにできる」というひともいるだ ろうし、自分は音楽の勉強をしたからそれができるようになったのではないと反論する方もいることだろう。しかし、メロディやリズムを真似てそのとおりに再 現するということができるということは、無意識的にせよ意識的にせよ、あなたがそれなりの技術の習得をしてきたということなのである。
音という情報は耳から入ってくる。音には「四本足」もないし「斑」もない。聞こえたそのままが、ダイレクトに身体全体に伝わる。デジタル信号に変 換されないアナログのデータがそのまま入ってくるようなものだ。たとえば音が「高い」とか「低い」とかいう情報は、いったん身体が受け止めたものを「視覚 的にとらえなおすと、この周波数は“高い”と感じられるな」というように「翻訳」した結果である。つまりいちど耳から入ってきた情報を、もういちど眼から 入力ししデジタル・データ(=意味)に変換したうえで脳に送っているのだ。
脳は眼から送られてくる情報を扱うことには慣れているけれども、アナログ・データをそのまま扱うことには慣れていない。アナログ・データには脳が識別できるような「意味」がないからだ。ただ、圧倒的な質量の「なにか」が、シャワーのように降り注いでくるだけなのである。
音楽の訓練をすればするほど、そのアナログ・データを視覚的に変換し「意味づけする」ことがすばやくできるようになってくる。プロの音楽家は、た とえばスプーンの落ちる音を聴いて、その絶対音名をいいあてたり、オーケストラの演奏を聴いてフルスコアを書くことができたりするが、それは常人に考えら れないほどのスピードで、音というアナログ・データを視覚的に翻訳することができるからである。
「Macがあれば、絵を描くように音楽が 作れる」とは、Macintoshという音楽を扱うことにすぐれたパソコンは、そうした「翻訳作業」をストレスなくおこなうのに適している、ということを 意味しているのだが、言い換えれば「Macが扱えるのは、視覚的なレベルの音楽のみ」ということでもある。
「視覚的なレベル」以上の音楽──それはさきほども書いたように、「圧倒的な質量をもった“なにか”」である。その「なにか」は脳では処理しきれ ない情報量をもっている。身体全体で直接「感じる」しかないものだ。なんらかの「意味」に変換されうるものではなく、「音そのもの」としてしか受け止めら れない「なにか」。それはけっしてパソコンからは生まれないものなのである。
〈補注〉
絵を描くことはかんたんだと強調しすぎたきらいがあるが、たとえばほんとうにすぐれた絵画は、もちろん誰でもかん たんに描けるものでないことはいうまでもない。すぐれた絵画には、やはり脳が処理しきれない、身体全体で感じるしかない圧倒的な情報量があるはずだし、す ぐれた画家は「意味に変換されるまえの、物自体のありさま」を描こうとするものだからだ。
一般的に、常識的に、「こう見えるはず」という先入見にとらわれない、生の事物をとらえ、絵として提示することにより、われわれに「物の見方」の変革をせまるのが、すぐれた絵画といえるはずだ。その意味で、「すぐれた絵画は視覚的でない」ともいえるかもしれない。
(2)
「視覚的な情報はデジタル・データに変換される」と書いたが、われわれは眼から入ってくる情報そのものを知覚しているわけではなく、かならずなん らかの意味への変換がともなっている、ということが言いたかった。「見たものを言葉に換えて認識している」といってもいいかもしれない。
たまにその変換がうまくいかないこともある。サルトルがマロニエの木の根っこを見て、「物自体」を知覚してしまった、というのは『嘔吐』の有名な エピソードだが、われわれもある物体をずっと見つづけていると、その物体のもつ属性(意味)がすべて脱落して、なんともいえない違和感を感じることがあ る。
音楽の場合は、このサルトルの感じた「物自体」を感じる度合いが、視覚の場合よりも大きいのではないか、と思うのだ。つまり「音そのもの」がまず 感じられ、それをなんらかの「意味」に変換するためには、それ相応の訓練が必要であるということだ(音が「大きい」「小さい」という情報くらいは即座に意 味に変換されるのかもしれないけれども)。
パソコンで音楽を作る場合、音楽のもともともっている圧倒的な量の情報を、「音の強さ」「テンポの速さ」「音色の違い」「音程の開き」などなどさ まざまな属性に分けて、それぞれのパラメータを決定することになる。エントロピーのきわめて高い状態から低エントロピーの状態に安定させるわけである。こ のことをぼくは「音楽を視覚的な情報に変換する」と書いた。パソコンで音楽をやっているひとにはすぐにわかってもらえるが、ほんとうにすべてのパラメータ が「目で見える」状態になるのだ。
いや、べつにパソコンでなくても、楽譜だって「視覚的情報(=意味)に変換されたあとの音楽の姿」であるわけだが。[木村 元]
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