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2006/10/14

身体の知者たち

【メモ】「blooming*sound*blog」に2004/08/19 01:11 PMに投稿した「身体の知者たち」を再録します。その時期、盛り上がっていたアテネ・オリンピックにこと寄せての記事ですので、そこのところはご容赦ください。[genki]

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■身体の知者たち

 オリンピック──!

 「メディアの戦略に踊らされてるなあ」と感じながらもチャンネル・サーフィンをする毎日。皮肉屋の同僚は「国粋主義者」とぼくのことを揶揄するが、そんなに単純なものではない。でも──じつのところ、ぼくはオリンピックを見て、いったい何に感動しているのだろうか。

 肉体の美とかいう言葉もあるけれど、そしてアスリートたちの鍛え上げられた肉体はたしかに美しいけれど、それだけに感動してるわけじゃない。超人的な技術? それもあるけど、なにか足りない。考えたあげく、ぼくの出した答えは「ほんとうの知者たちに出会える」ということ。

 人間の知性には、「頭脳の知」と「身体の知」の2つがある。後者には首をかしげるひとも多いかもしれないが、こどもの成長の過程をながめていると「自分は“身体の知”の発達段階をまのあたりにしているのだなあ」と確信する。

 こどもは勉強においても運動においても、まず「真似る」という段階から始める。親や年上のきょうだい、友達などのやっていることを見て、「あれをやってみたい」と希望し、「自分にもできるはずだ」と信念をもち、トライする。たいがいの場合、最初はうまくいかない。でも、希望と信念が強ければ強いほど、なんどもなんどもトライしつづけ、ついには「できた!」「わかった!」という瞬間がおとずれる。これが「身体の知」だ。この「知」はなまなかのことでは消えない。何十年も自転車に乗らなくても乗り方は忘れないように。

 「身体の知」は帰納法だ。つまり、「あれをやりたい」という答えがまずあり、それと自分の現状との間のギャップを埋める努力をする。それにたいして、「頭脳の知」は演繹。現状から出発して、もっとも合理的と思われる答えを積み重ねながら進んでいく。理屈でいえば、その結果、どんな答えが導き出されるかはわからない。

 もちろん、「頭脳の知」にしたって、ひたすらコンピュータのように演繹を重ねているわけではない。なにが合理的かという判断をくだせない場面もあるだろう。そういうときには「こっちの方向が正しいにちがいない」という「身体の知」の出番だ。逆に「身体の知」だけでは、「これが真理だ」といいはるだけの独善におちいる。体に刻み込んだ「身体の知」を出発点として、「頭脳の知」を積み重ねることになる。つまり、「身体の知」を「基礎」とすれば「頭脳の知」は応用。応用問題の解き方は忘れてしまっても、基礎がしっかりしていれば答えは導き出せる。それを続けていくうちに、「頭脳の知」も「身体の知」として定着するときが来るだろう。頭脳だって身体の一部なのだと考えれば。

 問題は「頭脳の知」がそのつどそのつど合理的な判断をくだしていくうちに、「現実的」ということを考えはじめることだ。「水泳ばかりやっていないで、進学のための勉強もしておいたほうがいいんじゃないか」「金メダルなんて、どだい無理なんじゃないか」「オリンピックなんて、しょせん商業主義に毒されたイヴェントにすぎないのかも」……などなど。本人に代わって、家族や周囲のひとびとがそうした“現実的”な判断をしてくれることもあるだろう。そうして、オリンピックをめざしていた“はず”のアスリートの卵たちは、夢をあきらめ「軌道修正」してゆく。

 オリンピックに出てメダルを獲得するところまでいくには、もちろん「身体の知」だけでなく、「頭脳の知」も必要だ。とくに近年はトレーニングの手法などもハイテク化され、選手はコンピュータなども駆使して「より合理的な」練習法を開発したりしているようだ。「自分はこのやり方でやってきた」という、いわば「経験の知」だけでは世界の頂点に立つことができない。スポーツの世界で、現代ほど「頭脳の知」がもとめられる時代はないのかもしれない。

 しかし、彼らの「頭脳の知」による「合理的な判断」をしっかりとつなぎ、メダルという「答え」へといたるたしかな1本の線にしているのは、まぎれもなく「身体の知」による「決断」にほかならない。「この答えが正しい」と信じ、「自分はなにがなんでもこっちの道を歩む」という、ともすれば「非現実的」な「決断」をすることができるかどうか、だ。

 オリンピックの表彰台には、「身体の知」を積み重ねた最高の「知者」たちの姿がある。彼らがインタビューに答える言葉のひとつひとつは、「哲学」の断片だ。彼らだけに通用する知恵ではなく、分野を異にするぼくらにも有用な普遍性をもっている、ほんとうの哲学。

 つまるところ、ぼくがオリンピックを見る理由は、「身体の知者たちに出会いたいから」ということに尽きるのだ。[木村 元]

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