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2006/10/07

記憶という仕事

【メモ】「blooming*sound*blog」に2004/08/10 01:50 PM投稿の「データの安住地」、2004/08/14 11:38 AM投稿の「記憶という仕事」、2004/09/08 11:17 AM投稿の「記憶という仕事:植野和子さんからのメール」を、3本まとめて再録します。[genki]

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■データの安住地【2004/08/10投稿】

 近ごろはぼくのまわりでも、プロバイダのストレージ・サービスを利用するひとが増えている。でも、ストレージに預けていたデータがサーバの不調でまるごと消えてしまうこともあるらしく、データの安住の地とはどこなのか、考えてしまう。

 HDなど回転系のメディアには寿命があるし、だいいち容量に限界がある。CDも時間がたてば腐食して読めなくなるそうだし、紙にハードコピーとったって、インクの寿命、紙の寿命がある。そういうことを真剣に考えているひとたちもいるだろうけど、永久機関が発明できないように「データの永久保存法」も夢物語なのかも。

 だいたいエネルギー不変とか作用反作用、古くは諸行無常などといわれるごとく、この世の中の事物はある面で増加しても、別な面をみると減少がみられ、あるいは時間の経過とともに振幅が少なくなっていくものだ。それに反して、デジタル・データというものは意図的に消去しないかぎり、どんどんどんどん増えつづけていく。これはあきらかに不自然。だからデータを永久に保存する方法がないというのも、ある意味、自然の摂理にかなったことかもしれない。

 そうすると、データの安住の地などというものはありえず、あえていうなれば「人間の記憶の中」ということになるかな。もちろん、日常的にみてもかんたんに失われてしまうことが明らかな「個人の記憶」ではなく、「社会の記憶」とか「歴史記述」とか、さらにはユングのいわゆる「集団的無意識」のようなものを考えているのだけれど。「神話」なんて、消そうと思っても消えないデータですね。

 思えばぼくらが日々生活しそれぞれに自己表現していることの究極の意味って、こういう「記憶」を紡ぎつづけることなのかも。みんなで巨大なHDを回しているってこと? でも、データの書き込みをしているのもぼくたち自身。それぞれの持ち場で、あるひとは経済活動で、あるひとは出版物で、あるひとはインターネットで、それぞれの小さなHDに書き込みをしてる。それがぜんぶ巨大なストレージ・サービスに保存されていくってイメージかな。

 願わくば、このサービスをつかさどっているサーバの管理者には、がんばって日々メンテナンスをしていただいて、ウィルスの攻撃などうけないようにしてもらいたいものだ。[木村 元]

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■記憶という仕事【2004/08/14投稿】 

 gakurezさんのblog「Doblog - 天網恢恢航海日誌 -」でトリュフォーの映画『華氏451』のことを読む。本が禁止された近未来社会。反動分子たちは地下に潜って本を読み、読むだけではなくそれを暗唱して記憶の中にとどめる作業を「生涯の仕事」としておこなう──それを読んで、敬愛するある老哲学者から聞いた話を思い出した。

 10年ほど前にクラウスという言語学者が発表した「現在約6,000ある言語のうち半数が100年後には使われなくなる」というに言及しながら、「これはですよ、100年後にはひとびとの記憶の中にある神話が半分になり、その結果、音楽の豊かさも半分になるということを意味しているのです。これがどういうことだか、君にはわかりますか」とあくまでもおだやかに、しかし厳しいまなざしでぼくを見すえながら、その哲学者はいった。つまり、民族があれば言語があり、その言語を保存する器として神話が存在する。神話はその民族や国家のなりたちを物語るだけではない。その民族がどのような世界観をもつか、彼らにはこの世界がどのように見えていて、どのように世界とかかわっているのかということがそこで表明されている。つまり、言語の数だけ神話は存在する。そして、その神話を語りつぐために音楽は誕生し、歌いつがれてきた。鑑賞芸術としての音楽、大衆を対象にした商業音楽などはしょせん、音楽のもつ機能の一部が肥大化した亜種であって、音楽のもつ本来の意味は「民族のもつ神話の記憶装置」なのだ。

 その哲学者が最近、アフリカで開かれた学会に参加したときのはなし。アフリカにはさまざまな少数部族が存在し、それぞれ独立した言語をもつため、学会で使用する言語をなににするかが大問題となった。議論の結果、「英語」が選択された! アフリカの言語だけではない。つい最近、ドイツ語正書法が改訂され、「エスツェット」が「ss」と表記されるようになった!(そのうちウムラウトもなくなるだろう) それぞれに専門家が真剣な討議を重ねているのだろうから、軽々にコメントすることは避けたいけれども、やはり以前書いた「デファクト・スタンダード」ということばを、ここでも思い出さないわけにはいかない。

 本を暗唱し、それを記憶することを生涯の仕事とする──それはSF小説の中だけのはなしではない。げんに、絶滅に瀕した民族のひとつ──アイヌの伝える叙事詩「ユーカラ」は、古老の記憶の中だけに保存されてきた。金田一京助ら学者たちがそれを聞き取り、出版したことによって、ぼくたちの共有財産となったけれども。

 EUに象徴されるようにグローバリズムの嵐吹き荒れるヨーロッパにも、たくさんの少数言語とそれを母語とする少数民族が存在する。ぼくは以前、「大きなヨーロッパの小さなことばたち」をテーマにした『カタルーニャ、バスク、コルシカ 魂のうたを追いかけて』(植野和子著)という本の編集を担当したことがあるけれども、ここでの主人公はバスク語、カタラン語など少数言語で歌いつづけるシンガーソングライターたちだ。ルイス・リャックというカタルーニャの歌手が作り歌った《レスタカ》というひとつの歌が、さまざまな少数語に訳され、それぞれの民族に「おらが歌」として受け入れられて歌いつがれていく様を読むと、本来の「グローバリゼーション」とはこういうものではないか、と目を開かれる。諸言語の豊かさを保ったうえでのグローバリゼーション。

 ぼくたちにできるのは、こうしたさまざまな「小さなものごと」に目をひらき、耳をすますこと。そして、それへの理解を自分なりの表現で少しずつでも表現していくことだろう。「記憶という仕事」は遠大で気の遠くなるような作業だが、専門家だけではなく、だれにだってできることなのだと思いたい。[木村 元]

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■記憶という仕事:植野和子さんからのメール【2004/09/08投稿】

 「記憶という仕事」という記事に、『カタルーニャ、バスク、コルシカ 魂のうたを追いかけて』という本のことを書いたが、著者の植野和子さんが記事をごらんになって、メールをくださった。記事ではその本のテーマともなっている「ヨーロッパの少数言語」について紹介したわけであるが、植野さんは先日その本の内容をもとに、なんとカタルーニャ語で(!)著書を刊行され、そのさいに版元から「少数言語」ということばをすべて「少数になりつつある言語」と直されたとのことだ。「少数言語」「少数民族」という言い方は「外部」からみたときの「見え方」にすぎないのであって、当人たちからみれば「いままで多数話していたけれど、現在は少数になりつつある自分たちの言語」という意識なのだろう、ということだ。

 なお、植野さんは現在パリの「ラジオ・ペイ(故郷のラジオ)」という番組に出演されている。月曜オック語、火曜バスク語、水曜コルシカ語、木曜カタルーニャ語、金曜ブルトン語、土曜アルザス語と毎晩担当が替わるなかのカタルーニャ語番組にレギュラー出演されているとのこと。日本人がカタルーニャ語のラジオ番組を担当する──想像すればするほどワクワクする。そういうなかから、新しい文化が生まれてくるのだ、きっと。[木村 元]


▼植野和子著『カタルーニャ、バスク、コルシカ 魂のうたを追いかけて』(by Amazon.co.jp)

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