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2006/11/09

モーツァルト 19世紀の響き(2006/11/06)

◆〈モーツァルト2006日本〉第3回コンサート
 モーツァルト 19世紀の響き〜室内楽で聴くコンチェルトとシンフォニー〜
 2006年11月6日(月)19:00 東京文化会館小ホール

◎曲目
 セレナード《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》ト長調 K525
 ピアノ協奏曲第13番ハ長調 K415(S. レーベルト/I. ラハナーによる室内楽編曲版)
 交響曲第40番ト短調 K550(M. クレメンティによる室内楽編曲版)

◎出演/演奏
 海老澤敏(お話)
 小川京子(pf)、神田寛明(fl)、堀正文・大宮臨太郎(vn)、
 佐々木亮(vla)、藤森亮一(vc)、吉田 秀(cb)

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 日本モーツァルト研究所主催のコンサート・シリーズ。この夜は19世紀の作曲家によるモーツァルト作品の編曲版を特集した。

 素晴らしかったのはあのト短調K550のシンフォニーを、ムーツィオ・クレメンティがフルート+ピアノ・トリオという室内楽編成にした編曲版(1815年)だ。あの《ソナチネ》の作曲者として知られるクレメンティは、1781年ヴィーンでのクラヴィーア弾きくらべで若輩のモーツァルトに惨敗をきっしたひとだが、それにもかかわらず、終生この夭逝の作曲家への敬愛をもちつづけたそうだ。

 この編曲における主役は、クレメンティ自身の演奏を前提としているのであろうピアノだ。ふつう、あのシンフォニーをピアノと弦で演奏するとしたら、冒頭のさざめくような16分音符のアルペッジョ(原曲ではヴィオラ)をピアノにあて、あの第1主題──印象的な半音階のモティーフ──は、原曲どおりヴァイオリンに奏でさせたいと考えるのではないだろうか。しかし、クレメンティはその逆をいく。ヴァイオリンはむしろ控えにまわし、ピアノにテーマを奏でさせるのだ。あの切ないテーマが、和音をともなった骨太の構造体として姿をあらわす。それだけならば、自分のパートであるピアノを前面にだしただけと感じられるかもしれないが、ピアノの旋律にフルートの柔らかい響きをユニゾンで添わせることによって、ピアノの硬質な音響ををうまく中和させ、ピアノ対他の楽器という対立構造が立ちあらわれるのを、じょうずに回避している。

 クレメンティがこの編曲を思いたった真意はわからないが、モーツァルトへの敬意や、当時大きな編成のシンフォニーの演奏がむずかしかったという事情もあろう。しかし、この編曲版は、たんなる「代用品」を超えて、モーツァルト音楽の真価をしっかりとふまえたうえでのオリジナリティある芸術へと昇華しえたものとなっている。

 なによりも、モーツァルトの音楽が、きちんと地に足のついた構造をもっていることを、この編曲版は明らかにしてくれる。ロマンティックな個人の感情をうたった「疾走する悲しみ」などではけっしてない。ここにあるのは、ゆるぎない「音楽の法則」そのものだ。あえていうならば、モーツァルトというひとは、音楽のもつ法則そのものを、みずからの感情としえたひとであった、ともいえるかもしれない。

 小編成でありながら、モーツァルトが晩年に到達した管弦楽芸術の神髄を体験することのできるこの編曲版。この夜の復活演奏をきっかけに、今後より広く演奏されるようになることを望みたい。[木村 元]

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