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2006/11/14

つのだたかしvs日本橋族?!──タブラトゥーラ[2006/11/13]

◆日本橋三井タワー アトリウムコンサート「タブラトゥーラ」
 2006年11月13日(月)18:30 日本橋三井タワー アトリウム

◎曲目
 タルタリア(田崎瑞博)
 トロキルス(江崎浩司)
 夜の蟹(田崎瑞博)
 風の丘(つのだたかし)
 新しい自転車(つのだたかし)
 夜来る人(つのだたかし)
 ごわごわ(田崎瑞博)
 レセルカーダ(16世紀スペイン)

 アンコール1:あれもだめ、これもだめ(?)
 アンコール2:海賊の唄(?)

◎出演
 タブラトゥーラ
  つのだたかし[ラウタ、ウード、リュート]
  田崎瑞博[フィドル]
  江崎浩司[リコーダー、ショーム]
  近藤郁夫[パーカッション、ハンマーダルシマー]
  山崎まさし[ビウエラ]

 + + + + + + + + + +

 日本橋三越の隣の三井タワー1階アトリウムでのフリー・ライヴ。みなさんどこで聞きつけて集まってくるのか、用意された100席ほどの座席はいっぱいで、立ち見がでる盛況であった。

 残念だったのは音響面。アトリウムの一角はすぽーんと吹き抜けになっていて、音がぜんぶ上へ抜けてしまう。リコーダーやショームといった強い音や太鼓、かろうじてフィドルの高音は客席にとどくが、ダルシマーやリュートの繊細な響き、ビウエラの豊かな低音などがとどいてこない。すこしPAの助けを借りたほうがよかったのではないか、と感じた。とくにこの日の客は、常連さんよりもなんとなく「日本橋族」といったセレブな風情の方々も多かっただけに、今後のリピーターを増やすうえでも、心残りだった。

 しかし、そんなマイナス面をおぎなってあまりあるのが、タブラトゥーラのパフォーマンス。とくに、つのだ、田崎、江崎の3人は、日本橋族のクールな値踏みの視線にもめげずの熱演。その3人とあくまでも静かに自分の世界に没入する山崎、近藤とのコントラストがおかしい。

 曲はオリジナルが中心。少年のような素直な感性を前面にだしたつのだ作品と、なんとなく悪夢のような幻想性をもった田崎作品のバランスも絶妙。それぞれのパフォーマンスにもその個性があらわれていて、バラバラなようで一体となったタブラトゥーラの味がかもしだされる。

 《ごわごわ》あたりから「聴衆参加型」の作品がつづき、渋い日本橋族たちもつい笑みをもらし、「わたしとしたことが」と顔を赤らめたりしている。

 圧巻はアンコール最後のカチャーシー(曲名は不明)。それまですこしずつ観客との間合いをはかっていたつのだが、ここで勝負にでたのだ。「次はカチャーシーですから、みなさん踊ってください。いいですね」 日本橋族の顔がひきつる。「この場の雰囲気をこわしたくはないが、人前で踊ることなどできないな。それともわたしを踊らせることができるかな、つのだくん」(じっさい、つのだよりも年かさのロマンスグレーな方々が多数)。

 客席に満ち充ちる心中の葛藤をよそに、曲が調子よく始まる。つのだが煽る、煽る。最初はみな、まるで椅子に接着剤でも付いているかのように、動かない、いや、動けない。「この日本橋でウン十年を過ごしてきたわたしが、なぜ……」「うっ、踊りたい、踊りたいけど、部長みてないだろうな……」──さまざまな声にならない叫びがアトリウムにこだまする。

 容赦のないつのだの煽りに、少しずつ立ち上がるひとたち。それを細い目で見ながら、「ふん、キミたちはこの土地に縁のないおのぼりだろう。気楽でいいなまったく」と、ハンケチで額の汗をぬぐう日本橋族。しかし、少しずつ立ち上がり、踊りはじめる周囲のひとたち。「ま、まてよ、あ、あれはたしか○△物産の部長! まずいな、ここで座ったままだと、来週のミーティングでなにをいわれるか……。しかたない、ここは大人になって、少し立ってみるか」と腰を浮かしかけたとき、曲は無情にも終了したのであった──。

 以上は、わたしが踊りながら考えた妄想にすぎないが、じっさいのところ、「つのだたかしVS日本橋族」の闘いは、両者ゆずらず、五分と五分の引き分けとみた。次のアトリウムコンサートの折りには、PAのことも考えていただいて、リターンマッチといきたいところだ。

 + + + + + + + + + +

 それにしても、この日は当ブログでもおなじみの白石和良さんも来られていたが(白石さんも日本橋族です)、いつもどおり最前列。古楽やトラッド関係のライヴでつねに最前列にいる男──それが白石さんだが、こうした全席自由の無料コンサートでもあの場所をゲットするとは! 白石さんのファン魂をみた思いがした。[木村 元]

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コメント

タブラの速攻レポート読ませて頂きました!

私はご存じのとおり前でかじりついて見ていましたので後ろといいますか全体の様子は分からなかったのですが、なるほどそうだったのかといろいろな意味で納得です。

前の方のお客さんは、(どこかで見たようなコアな方はおられない様子でしたが)ずいぶん早くから来た人達なので熱心な感じは強く受けました。

あと、確かに最前列でも、あの激演なのに(!)、あの吹き抜けの場所のエアボリュームが大きすぎるためでしょうが、いつもの会場のコア石響などでの迫力に比べてちょっと音の痩せた感じも受けましたので、PAは、ここではやはりあった方が良かったかと思います。

PAについては、どうしてもクラシック〜古楽系のアーティストは抵抗があるのかも知れませんが、(生音に拘る気持ちも確かに分かりますが)海外では、たとえばイル・ジャルディーノ・アルモニコが野外のジャズ・フェスに出演した時の写真なんか見ますと(ポピュラーのバンドのように)楽器ひとつひとつにマイクを立ててますし、日本でもたとえば、アントネッロは低音の補強改善の目的で使う事がありますね。
アントネッロの濱田さんが、ある時に、このような事を言われていました。「クラシックの声楽は、マイクなしに大きなホールで届く声量を得るためにオペラのような特殊な歌いかたの技法を発展させたが、それによって失われたものも少なからずあるのではないか。場合によってはPAを使った方が自然でよいのではないか。」これは私のウロ覚えの不正確な引用ですので、もしも間違っていたら申し訳ありませんが、非常に示唆に富んだ意見だと思います。

逆にポピュラー系では、たとえば青山のマンダラとか武蔵野スイングホールあたりの少空間でアコーティックな編成のトラッド・バンドが演奏しても普通マイクを立てるのでこれは明らかに余計ではないかと私などは感じるのですが、そういう時に事情(理由)を聞くと、大抵はミュージシャンがマイクを前提にした演奏に慣れきっていて、マイク無しだとバンドの音のバランスが取れない(分からない)などという答えが返ってきます....慣習の問題というのは根深いですね。

ところで、タブラのライヴですが、最後の、「皆踊れ!」のパートでは、最初に立ち上がるのは恥ずかしいので、座っていたら「ホラ、シライシさんも!」なんてつのだ先生に名前を呼ばれて声を掛けられてちょっと恥ずかしいやら嬉しい?やらでした(苦笑)。

ともあれ、アンコール中のいつもの「三本締め」(これまでやったのはビックリ)も含めてフリーコンサートでも少しも手を抜いたところのない本当に見事なライヴでしたね。

投稿: 白石和良 | 2006/11/15 22:45

白石さん、先日はどうも。

PAについては、うかがったところでは、どうも主催者側の意向らしいです。PA使うと、よくあるロビーコンサートと変わらなくなってしまう、というこだわり?なのでしょうか。ダウランドさんも「音響は徐々に改善されていくのでは?」とおっしゃっていましたので、期待しましょう。

濱田さんのご意見はひじょうに納得できますね。PAの問題から様式論にまで踏みこんでおられるところが、さすがです。アコースティック・ライヴとPAの関係、あとはポピュラー系ミュージシャンとクラシック系ミュージシャンの「響き」にたいする意識の違い等々、このブログでも考えてみたい問題ですね。

投稿: 木村 元 | 2006/11/15 22:54

キャシー・バーベリアン(カティ・ベルベリアン)は、モンテヴェルディから現代前衛作品はもちろんPA無しで歌い、ガーシュイン・ワイル・ビートルズなどはマイクに囁きかけながら歌ってました。

遅ればせながら、《平均律》クラヴィコード公演、御来駕有難う御座いました >木村様

投稿: 閘門大師 | 2006/11/21 05:56

閘門大師さま、コメントありがとうございます。

《平均律》素晴らしかったです。先日のモーツァルトのグラスハーモニカのコンサートは聞きのがし、心残りです。また再演していただければうれしいのですが……。

キャシー・バーベリアンの話は、彼女が作品の様式によって、PAのあるなしを使い分けた、ということですよね。それはとても当をえた判断だと思うのですが、いっぽうでは作品によって異なるべき様式に、演奏家個人の「慣習」が優先され、判断停止におちいって、その場その場での適切な判断(ここではPAを使ったほうがよい等)をくもらせることもあるかと思います。また、「クラシックではPAは使わない」「ポピュラーでは使ってよし」という、周囲の人間の勝手なカテゴライズも影響するかもしれませんね。

投稿: 木村 元 | 2006/11/21 10:14

  便乗して書いてしまいますと、これは何度か申し上げていることなのですが、クセナキスのピアノ協奏曲などでは是非ピアノにPAかけて頂きたいのですよ。独奏がよく聞こえるようなオーケストレーションなどそもそも作曲者の念頭になく、一方ピアノパートは弾きにくい音符が書き連ねてあって拾うので精一杯、両者のバランスを取ろうとしても取れるものではありません。勿論ピアノ独奏部詳細が聞こえたほうが、音楽的に遥かに面白い筈です(CD録音では何とかそれが実現)。ピアノと金管五重奏のための《エオンタ》でさえ、ピアノパートの音は聞こえなくなる箇所が頻出します・・。
  まぁそんなことを言い出したら、モダンオケにアリバイ作りで参加させられているチェンバロの音なんて、全く聞こえませんけどね。アランフェスをPA無しでオケと共演出来るギター奏者というのは、山下和仁以外にどのくらいいるんでしょうか。

投稿: 閘門大師 | 2006/11/24 07:41

聴く側からすれば、作曲家が書いた音符がすべて聞こえたほうがうれしいですね。かといって、ピアノが聴こえるように、オケの編成をいじるのも、現代作品の、それも作曲家が鬼籍にはいってしまった作品だとむずかしい。PAを使う理由をきちんと説明すれば、ぜんぜんOKだと思うのですが。「作曲家が理想とした音響による初演!」なんて銘打って……。それをつきつめちゃうと、ぜんぶのパートを事前に録音しておいて、演奏者は弾きマネ──ってことになりかねませんが(笑)。

だいたいロマン派あたりのコンチェルトでも、オケがTuttiでピアノが速いパッセージを弾いてるような場合、ピアノがむちゃくちゃやっててもわからんだろうなと思います。

投稿: 木村 元 | 2006/11/24 09:36

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