「古楽特派員テラニシ」014──ピリオド楽器による「第九」
ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱付き》をピリオド楽器で演奏するステージが、11月30日、延原武春指揮により兵庫県立芸術文化センター大ホールでおこなわれた。わが国でもバロックや前期古典派の音楽をピリオド楽器で演奏する動きは定着してひさしいが、後期古典派となると、機会はまだ少ない。国内外から古楽奏者らを招いて組織したオーケストラ「ピリオド・インストゥルメント・プレイヤーズ(P.I.P.)」は、はたして、どのような響きがするのか──この試みに、筆者もヴァイオリン奏者として参加した。
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コンマスのサイモン・スタンデイジ以下、第1ヴァイオリンのメンバー(夙川カトリック教会)▼
ほぼ初演規模である約60人編成のP.I.P.のコンサートマスターは、かつてはトレヴァー・ピノックの「イングリッシュ・コンサート」のコンマスとして活躍し、現在も「コレギウム・ムジクム80」を主宰するなど、イギリス古楽界をリードするサイモン・スタンデイジがつとめた。管楽器は坂本徹(クラリネット)、江崎浩司(オーボエ)、下田太郎(ホルン)、ドイツからトーマス・キーファー(コントラファゴット)ら名手を揃えた。そして、弦楽器はOBを含む日本テレマン協会の奏者を中心に、古楽器経験者とモダン楽器奏者が半々で構成。第九の演奏には、40人編成のP.I.P.合唱団が加わった。
▼コントラファゴットのトーマス・キーファーの使用楽器は1820年製のオリジナル(夙川カトリック教会)
今回の標準ピッチは古典派ピリオド演奏の定番であるa=430ヘルツ。楽器変革のさなかにあったベートーヴェンだけに、弦楽器はバロックとクラシカル、現代の仕様が混在。第1−3弦は羊の腸を撚〈よ〉って乾燥させたピュア・ガット弦、第4弦は銀線巻きのモダンのガット弦を使用した。ホルンやトランペットはまだナチュラルで、現代のものより細身のトロンボーン(サックバット)は、大阪音大楽器博物館の所蔵品だ。木管はとうぜんながら、バロック期よりもキーの数が増えている。キーファーのコントラファゴットや、江崎のオーボエは、よくあるレプリカ(複製)ではなく、珍しいオリジナル(1820年代)とあってとくに目を引く。余談だが、キーファーはふだん、モダンのコントラファゴットも吹いているが、モダン/ピリオドとも普通のファゴットすら演奏しない「コントラファゴット専門奏者」なのだという。
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ところで、ベートーべンをピリオド弦楽器で演奏するうえで、もっとも大切なことは何なのだろうか。スタンデイジに尋ねてみると「弦と弓の関係、とくに圧力を考えること。重音はどう弾くのか? そして早いパッセージは? 音楽や、弓じたいが変化しているのに、バロック奏法のままだと音が潰れ、音楽の流れが悪くなる」と語る。そして、「スルー・ザ・ウェイ(適正な道を行きなさい=適当な圧力を選びなさい)」と付け加えた。
坂本徹氏愛用の楽器▼
管楽器はどうか。「ピリオド楽器での演奏は、現代の楽器より簡単」とクラリネットの坂本は言い切る。「これほどベートーヴェンの作曲のコンセプトに沿った楽器はないから。その後の発達の過程で“できること”が増えたのは確実だが、それはベートーヴェン演奏に、はたして必要なものなのかどうか。それに少なくとも、この過程のなかで捨てたものも多いはず」と説明する。
▼これだけのピリオドの管楽器が並ぶさまは壮観の一言(夙川カトリック教会)
また、今回は独ブライトコップフ社から出版されたばかりの新校訂譜が使用された。実際に弾いてみると「スフォルツァンド」の意味合いで同小節内でフォルテを繰り返し記すなどといったベートーヴェン独特の表記を一般的なもの(この場合は「スフォルツァンド」表記)に改め、実際の演奏に即している感じを受けた。いっぽうで、「作曲者自身がメトロノーム使用に不慣れだったため、自然でない」として無視されることの多い速度記号は、あらためて採用されている。
それにしても、第九の弦楽パートはなぜ、こんなに難しいのだろうか。同じ交響曲でも、第8番までとは比べものにならない。ふと、以前ヘルベルト・ブロムシュテットにインタビューしたとき、彼が「ほんらい、第九の弦パートは演奏不能なほどわざと難しく書かれている。演奏にそれなりのテンションを与えることを意図したのです。ところが、最近の奏者はなまじっか指が回るようになって、ちゃんと弾けてしまったりするので、ベートーヴェンの意図とはずれてきてしまっている。これははたして、よいことなのか…」とこぼしていたことを思い出す。「こうなると、きちんと弾けない私こそがオーセンティックなのかも……」という言い訳めいた考えが、練習中にふと頭をよぎる。
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下田太郎(手前)らナチュラルホルン4管(夙川カトリック教会)▼
ステージ2日前から2日間、西宮・夙川カトリック教会でおこなわれたリハーサルまで、この楽団がどんな音がするのか、誰にも想像できなかった。実際に音を出すと、金管は打楽器のように轟き、木管セクションは素朴で魅力的だ。そして、弦楽器は人数が少ないわりには豊かな響きがある。デリケートな木管の音をかき消すこともあるため、延原からは「小さく弾いて」との指示が再三あった。音楽的には、スタンデイジが指摘したとおり、流れを潰さない弓運びに気をつかう。普通なら弓の根元寄りを使うような刻みの場面でも、先弓を指示されるケースが多かった。
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▼ステリハも早くから板付きで練習熱心な奏者たち(県立芸術文化センター大ホール)
満席の聴衆を前にしたステージは、本番ならではの傷や、練習とは音響特性が変わったため、弦楽器のピツィカートが思ったほど響かないなどの問題は散見されたたものの、「小編成ながら、迫力があった」「澄んだ音色もいい」とおおむね好評だった。正直をいえば、第九は合唱団の好演に救われた感が強かったが、前プロで演奏した《コリオラン》序曲が、意外にも好反応だった。「最初の響きで観客を驚かせよう」という延原の意図は通じたようだ。スタンデイジも終演後、「ヴェリー・グッド・サウンド」と笑顔を見せていた。
終演後の楽屋でスタンデイジ氏と筆者。撮影はクラリネットの坂本徹氏▼
延原は「わが国でベートーヴェンをピリオド楽器で演奏する、という流れの第一歩は作れた。来年もぜひやりたい。こんどは、もっと練れた音楽にできるはず。いずれは交響曲全曲も」と語る。一奏者として、ぜひ「次」があることを期待したい。[寺西 肇]
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