小鍛冶邦隆の「Carte blanche」003|室内オーケストラの命運──東京シンフォニエッタ第19回定期公演を聴く
6年ぶりに東京シンフォニエッタを聴いた(2006年12月15日、東京文化会館小ホール)。優れた演奏能力をもつ現代音楽アンサンブル団体の演奏である。ところで、私の印象はむしろこうした演奏行為の背後にある今日的な意味合いへと向かう。
演奏された作品にかんしては、初めて聴く細川俊夫《旅VIII》以外は、なんらかのかたちですでに知る作品である。福士則夫《花降る森》は、私が主宰する東京現代音楽アンサンブルCOmeTで初演した作品で、そのさいの公演「室内オーケストラの領域III」で第3回佐治敬三賞を受賞した。また東京シンフォニエッタによる近藤譲《シジジア》と野平一郎《ドゥーブル》の初演を6年前に聴いている。近藤作品はスコアを通じてさらに知ることとなったが、野平作品の今回の改訂についてはたいへん興味深く聴いた。
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室内オーケストラの概念はおそらく、1906年に作曲されたシェーンベルク《室内交響曲第1番》にさかのぼるのであろう。世紀末・世紀初頭の大編成のオーケストラに対し、縮小・集約された楽器法が問題とされ、さらに1920年代には「新音楽」を象徴するものとなったと考えられている。しかしながら、むしろ《ピエロ・リュネール》以降の新しいアンサンブル形態(狭義では室内楽の伝統)において、戦後の前衛音楽アンサンブル作品が発展をみた点と比較すると、室内オーケストラという概念はかなりの部分(肯定、否定を問わず)古典派以降の伝統的なオーケストラに負っているといえよう。
東京シンフォニエッタは、優れたオーケストラ奏者を中心に構成されているようにみえる。彼らが創立時にモデルとしたロンドン・シンフォニエッタ同様に、オーケストラ奏者として日常的に多忙な活動をおこなっているメンバーが、現代音楽演奏のための団体を組織している。こうした特徴は彼らの優れた合奏能力に反映しており、指揮者の板倉氏はそこではアンサンブルのコーディネーター的なあり方に徹しているともいえよう。
しかしながら福士、野平作品のように、伝統的なオーケストラ書法の進化形として書かれた作品には、指揮者という良くも悪くも中央集権的存在が不可避となる。その点、近藤作品では、アンサンブルのコーディネートに徹した指揮者の役割により、オーケストラ奏者たちが夢見る自治(オートノミー)が偶〈たま〉さかに実現するのである(しかしながら同作品では、逆説的にさらなる音価と発音の徹底した管理が要求される、という事実が露呈する)。
指揮者を必要性におうじてもちいる団体として、アンサンブル・ノマドやアール・レスピランがあげられるが、彼らの演奏にたいするコンセプトと、板倉氏の率いる東京シンフォニッタのあいだには意外に大きな違いがあるといえる。ヨーロッパの有力な現代音楽演奏団体がかかえるこうした問題を、細川作品は器楽アンサンブルと室内オーケストラの狭間にあって、たくみに解決(回避)しているかに思えた。[小鍛冶邦隆(作曲家)]
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