折り目ただしい演奏のたいせつさ──東京シンフォニエッタ(2006/12/15|東京文化会館小ホール)
◆東京シンフォニエッタ第19回定期公演
2006年12月15日(金)19:00 東京文化会館小ホール
◎曲目
福士則夫/花降る森(2003)
細川俊夫/テューバとアンサンブルのための《旅VIII》(2006/日本初演)
近藤 譲/シジジア──14楽器のための(1998)
野平一郎/ドゥーブル──室内オーケストラのための(1999−2000、2006)
◎演奏
指揮:板倉康明
東京シンフォニエッタ
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東京シンフォニエッタの演奏をひとことであらわそうと思うと、即座に「折り目ただしい」という形容詞が思い浮かんだ。「今日演奏するような一流の作曲家は楽譜にその音楽的想念をすべて表現していて、全く説明の必要なく、演奏家はそれを正確に読み取るだけで演奏は成立します……」とは、この日のプログラムに掲載された音楽監督・板倉康明のメッセージからの引用であるが、これはたいへん謙虚な言葉のようでいて、考えようによっては、じつはたいへん不敵なコメントともいえる。「楽譜を正確に読み取るだけで演奏できる」──この自信がかれらの折り目ただしい演奏にあらわれている。同時代の音楽を聴衆に紹介するうえで、じつはもっともたいせつな姿勢ではないだろうか。
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「室内オーケストラを森に喩えた」という福士作品。木の楽器である弦楽器のフラジオレットによるポルタメントのやりとりから始まり、各楽器のさまざまな奏法、組み合わせをとおして、音響による空間描写をしてみせる。ときおり、さーっと刷毛〈はけ〉を滑らせるかのようなハープのグリッサンドが、音楽に潤いをもたらす。「森の情景を映す意図はない」とのことだが、しばし音響の森を散策する愉しみに興じた。
細川作品は、チベットの僧の読経に影響をうけているという。ゴングや高音のチャイムなどのパーカッションを含むアンサンブルは、仏教的といってもいい光景を描写するが、同時に「胎内の音響」をも想起させる。仏教では「握一点開無限」といわれるが、「音をマテリアルとして、客観的に操作するのではなく、ひとつの音のいのちの内側に入り込んで、そのいのちのエネルギーの変化を体験する、音の旅(Voyage)」と作曲家が表現するとおり、ミクロコスモスとマクロコスモスの両宇宙をあらわす、ひじょうに観念的な世界を感じた。
近藤作品は、なんどもシグナルのように打ち鳴らされるピアノの打音に、そのつど、いっけん単純なリズムのアンサンブルが続く、という構成だが、アンサンブルにはじつはひじょうに微細なリズムの揺らぎがあり、そこはかとない情緒をかもしだす。近藤の音楽には、へんな言い方だが、音楽だけがある。音響的な興趣や名人芸の悦楽、哲学的思想の高邁さといった音楽以外の相対的な要素(第一にあげた音響でさえも、聴き手の耳の聴こえに依存する相対的なものといえる)をはぎとったことでえられる風通しのよさがある。その美しさは、数学の証明のように、感情のはいる隙のないものだ。
野平作品。手練れの即興演奏のように気持ちのよい音楽。折り目ただしい演奏をつづけてきた東京シンフォニエッタのメンバーが、少しネクタイをゆるめて演奏しているような感覚。演奏者はさぞ気持ちがいいだろうと想像した。[木村 元]
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