冷徹な観察眼と天上からのまなざし──ヘンデル《ヘラクレス》全曲[2007/01/14|浜離宮朝日ホール]
◆第4回ヘンデル・フェスティバル・ジャパン2006「ドラマティスト、ヘンデル」
オラトリオ《ヘラクレス》(HWV60)全曲
2007年1月14日(日)15:00 浜離宮朝日ホール
◎出演
指揮/チェンバロ/オルガン:渡邊孝
牧野正人(ヘラクレス)
波多野睦美(デージャナイラ)
野々下由香里(アイオレ)
米良美一(ライカス)
辻裕久(ヒュロス)
キャノンズ・コンサート室内管弦楽団&合唱団
合唱指揮:辻裕久
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このほど『作曲家◎人と作品 ヘンデル』を上梓した三澤寿喜氏が実行委員長をつとめるHFJ(ヘンデル・フェスティバル・ジャパン)、第4回のテーマは「ドラマティスト、ヘンデル」。その締めくくりに、ヘンデル円熟期の傑作、オラトリオ《ヘラクレス》全曲を上演した。
日本ではヘンデルのオペラやオラトリオは、その長大さが敬遠されてか、あまり上演の機会が多いとはいえない。この日の上演も、2回の休憩をはさんで計4時間強におよんだが、聴衆は集中を途切れさせることなく、ひじょうに熱心に聴きいっていた。その要因としては、後述する演奏のクオリティの高さもさることながら、これまでの真摯な活動をつうじて、質の高い聴衆を育ててきたHFJの努力が特筆される。
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作品の第一印象として、脳裏にうかぶ表現をそのままことばにすれば、「体言のドラマ」。これだけでは判じ物みたいだが、たとえば「愛」とか「憎しみ」「恐れ」といった名詞法による体言が、これでもかこれでもかと繰りだされ、それがドラマの推進力となっている──といったニュアンスだ。
ふつう、ドラマとは「愛する」「憎む」「恐れる」といった人間的な感情の動きが劇の推進力となるが、ヘンデルのオラトリオにおいては、そうではない。この《ヘラクレス》の主人公デージャナイラ──夫ヘラクレスが捕虜として連れ帰った敵方の美貌の王女アイオレに嫉妬の炎を燃やす奥方──は、「嫉妬する」というよりもむしろ「嫉妬」になる。
ヘンデルの筆は、デージャナイラの人間としての心の移り変わりや行動を描くのではなく、彼女を「嫉妬の化身」と見立てて、彫像を細かく細かく彫りすすめるように、「嫉妬」という感情のもつあらゆる側面を、細大漏らさず精密に描きだそうとする。バロックのオペラにはよく、「愛」とか「正義」といった登場人物が現れるが、その意味でこのヘンデルの劇作法はまぎれもなくバロック的といっていい。そして、この作品がオペラではなくオラトリオとして作曲された理由もそこにあるだろう。
ただ、ヘンデルの筆にはもうひとつの特徴がある。それは徹底したリアリズムだ。バロックのオペラにありがちなマニエリスム的誇張からはほど遠い、冷徹なまでの観察眼。「嫉妬」を劇画的に誇張するのではなく、細密画のように細かく、そして深く観察するヘンデルの眼──それが、デージャナイラの人物造形にたぐいまれなるリアリティをあたえるとともに、ひじょうに天上的なあたたかさに包んでもいる。つまり、目に見えるかぎりのものを描くことに徹するヘンデルの眼は、憂き世に迷える人間たちを天上から見つめる神の眼ともなり、デージャナイラはみずからの嫉妬心をこれ以上ないほどの精密さで描かれながら、同時に神に祝福された存在となるのだ。演奏会の冒頭、三澤氏が「ヘンデルの作品には、人間存在への暖かいまなざしがある」と述べたのは、そういうことなのではないか。
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演奏は、演奏者個人の技量、完成度の高いアンサンブルと、どこをとっても文句のつけようのない素晴らしいものだった。とくに指揮と通奏低音を担当した渡邊孝のディレクションは、硬軟の移り変わりにハッとさせるものがあり、終止、音楽の集中力をとぎれさせることがなかった。
また、デージャナイラを歌い演じた波多野睦美の素晴らしさ! バロック音楽の様式をきっちりと押さえたうえで、これほどのレンジの広い音楽に溺れることなく、ドラマをぐいぐいとリードしていくパフォーマンスの自在さは、まったく得がたいものだ。
発足4年にしてこの高みに達したHFJ。今後の活動の展開がひじょうに楽しみだ。[木村 元]
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