小鍛冶邦隆の「Carte blanche」005|Lecture(読解)? Lecture à vue(視奏)?
◆藤井一興 ピアノリサイタル
2007年5月8日(火) 東京文化会館小ホール
◎曲目
フォーレ:バラード嬰へ長調
ヴァルス・カプリス第1番 イ長調 op.30
第2番 変ニ長調 op.38
バリフ:エール・コンプリメ
ドビュッシー:前奏曲集第2巻
◆野平一郎ピアノ演奏会
2007年5月24日(木) 東京文化会館小ホール
◎曲目
シューマン:森の情景 op.82
クライスレリアーナ op.16
ドビュッシー:練習曲集
+ + + + + + + + + +
藤井一興氏と野平一郎氏のピアノリサイタルを聴いた。作曲家としてのキャリアから、現代音楽演奏の得がたいエキスパートとして、さらにバッハからメシアンに至る伝統的レパートリーにおける卓越した演奏活動を展開する2人のピアニストの、ドビュッシーをメインにすえた興味深いリサイタルであった。
両者に共通した評価は、高度な音楽的能力と作曲家としての音楽的読みの深さに裏づけられたピアノ演奏である。また両者ともに楽譜を置いての演奏が見られた。
藤井氏は冒頭のフォーレ3曲以外を、野平氏はすべての演奏曲目で楽譜を置き、演奏した。とくに興味深く思えたのは、楽譜をピアノ内部に置き、ドビュッシー《前奏曲集第2巻》のみごとな音楽的リフレクションを楽譜からすくい上げていた藤井氏の、暗譜で演奏したフォーレ3曲における迷走である。控えめに置かれた楽譜が、ドビュッシーの瞬時の音楽的イデーを引き出す担保となっていたのだ。
いっぽう野平氏は(譜めくりをおきながらも)できるかぎり自身の手でいつくしむようにページをめくりつつ、あたかもひとつの物語を吟唱するかのように、音楽的含蓄に富んだシューマン演奏を展開する──野平氏自身のかすかな歌い声につれて、歌曲の伴奏か、あるいは親密な室内楽的対話であるかのピアノの響きが、《森の情景》を語り、《クライスレリアーナ》を演ずるのである。
さらに興味深いことに、野平氏は演奏箇所の難易度にかかわらず、ほとんどつねに楽譜から目を離さない。まさに視奏(Lecture à vue=初見)の心得が、ここでは音楽作品の錯綜する内容の瞬間の読解(Lecture)を可能にする。音楽を記憶から解き放ち、現在へと置き換える。
しかしながら当夜のプログラム・ノートのなかで野平氏みずからが、ドビュッシー《12の練習曲》について、「どうしたら作曲家が張った技術的な罠を逃れ、あの精緻でヒューマンな響きに至れるのでしょうか」と問うとおり、この作品の内包する過酷な身体性が、奏者の想像力の飛躍を妨げる「罠」を仕掛ける。この点においては藤井氏の瞬発的な身体性の生み出す美しい音楽は、断片的だとしても、かけがえのないものだ。
ピアニストたちは際限のないプラクティス(実行)とエクササイズ(練習)の果てに、作品という歴史性の回路の起動を試みる。作品は身体化した記憶の総体として、内面(inter)と外部(ex)への介在化としての解釈=interpretation、表現=expressionを実現する。作品化の瞬間、ピアニストたちのなかに不安と忘我的時間が生みだされる。それらは奏者が作品と一体化する瞬間であり、作品にまつわる記憶のすべてを同時に失う瞬間でもある。暗譜とは、こんにちその歴史性(起源と効用)としての議論とは異なった水準で語られるべきものなのである。
演奏者の記憶(暗譜)にまつわる栄光と悲惨のかたわらに、藤井氏と野平氏はたたずむ。[小鍛冶邦隆]
| 固定リンク