作曲/演奏/理論をつなぐエクリチュールの洗練|CD『ドゥブル-レゾナンス/小鍛冶邦隆作品集』
◆ドゥブル−レゾナンス/小鍛冶邦隆作品集
コジマ録音 ALCD-72
◎曲目
1.オーケストラのための《愛の歌》(1988)
2.ピアノとオーケストラのための《愛の歌II》(1999)
3.ピアノとオーケストラのための《デプロラシオンII》(2003)
4.オーケストラのための《愛の歌III》(2003/2006改訂)
5.ピアノと16奏者のための《ドゥブル-レゾナンスII》(2004)
6.ピアノと室内オーケストラのための《ポルカ集・タンゴ集II》(2001)
◎演奏
小鍛冶邦隆(cond.):1、3−6
秋山和慶(cond.):2
東京交響楽団:1−4
東京現代音楽アンサンブルCOmeT:5−6
中井正子(piano):2、3、5-6
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本作は作曲家・指揮者として近年の活躍いちじるしい小鍛冶邦隆の、1988年から改訂もあわせれば2006年までの近作を集成したCDアルバムである。
小鍛冶の作曲家としての立ち位置は独特だ。東京芸大からパリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)、オリヴィエ・メシアン門下というフランス系作曲家としての本流に属しながら、オーストリアとイタリアでオペラをはじめとする指揮を学び、帰国後もまずは指揮者として着実なキャリアを積んできた。そして東京シンフォニエッタ、そして東京現代音楽アンサンブルCOmeTと、自作を含む現代音楽を演奏する専門家集団を組織。そうして地場を固めたうえで、近年は本CDに収録された作品はじめとする意欲作をつぎつぎに世に問い、また日本現代音楽協会事務局長をつとめるなど、作曲家としての存在感を強く示している。
いっぽうで『ベルリオーズ/R.シュトラウス 管弦楽法』(音楽之友社)の日本語版監修を手がけ、近く『作曲の技法──バッハからヴェーベルンまで』(仮題。音楽之友社)の刊行も予定されるなど、理論家としての側面もアピールしはじめた。今年4月からは母校作曲科の准教授に就任、いよいよこれからの日本の作曲界を創作・演奏実践・理論のすべてにおいてリードする存在として揺るぎない地歩を得たといえる。
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さて、本作を通して聴いてまず感ずることは、小鍛冶の作曲家/演奏家/理論家という3つの貌が、分裂したものとしてではなく、まさに一体となってその作品に結実しているということだ。
本CDの「プログラム・ノート」冒頭に小鍛冶自身が「自己複製過程、自己組織化」ということばを用いてみずからの音楽をあらわしているが、彼の作曲/演奏の根幹をなす理論がこの「自己複製/自己組織化」といえるだろう。
以前、片山杜秀が小鍛冶の音楽を評して「なにも信じていない」と書いたそうだが、まさに小鍛冶作品はひとつひとつの音への瞬間的な反応──みずからの発した音への一種の〈驚き〉あるいは〈答え〉として──が、オートマティックに旋律やハーモニーを紡ぎだしていく迷宮のような世界であり、別な場所にあるなにか(様式であったり、編成であったり、テクストであったり)に依拠して、みずからに理論的制限をもうけ、その枠のなかで発想するタイプの作曲ではおよそない。
このように書くと、自由気ままでまるで理論的支柱のない音の垂れ流しのように思われそうだが、現実はまったく異なる。つまり、音楽理論というものはそもそもひとつの音への瞬間的反応の形式のことであり、それは演奏においても作曲においても、まったく同じことである。たとえば、バロック時代の数字付き低音の演奏とは、旋律や音への反応の身体的様式であるし、作曲においてはある音のあとになにを書くかということがエクリチュールの要諦である。
小鍛冶の作曲/演奏における理論的支柱というものをひとつ挙げるとするならば、みずからの身体的反応の様式として、エクリチュールというものを極限まで鍛えるということになるだろう。「なにも信じていない」──なににも依拠せず、エクリチュールの徹底的洗練をひとつひとつ過たずに書き記していく作曲法は、理論的堅牢さと即興的柔軟さを併せもつことになる。そのようにつくられた作品の演奏には、こんどは作曲するような細心さが要求されるだろう。小鍛冶がまず演奏家としてキャリアを積み、しかるのちに作曲家として意欲作を発表するようになったことは、たんにセルフマネージメントの結果というよりも、芸術家としての本質がそれを要求したからだといえる。
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以上はCDアルバムをとおしての印象であるが、もうひとつ特筆すべきは2006年改訂の(4)でのビル・エヴァンズとジョージ・ガーシュイン、2001年の(6)でのポルカ、タンゴといった大衆音楽(とくにリズム面)の大胆な引用である。上述の「自己複製」ということからいえば、自己作品の引用は小鍛冶作品の本質の一部ともいえるが、他者の作品や、ポピュラーなリズムをある種コラージュのように散りばめる手法は、エクリチュールの研磨ののちに小鍛冶が到達したより自由な境地を示しているように思われる。「自己複製」「自己組織化」の迷宮を抜けて、作曲家は明るくひらけた天地に立ったかのように闊達な筆さばきをみせている。[木村 元]
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