« 小鍛冶邦隆の「Carte blanche」005|Lecture(読解)? Lecture à vue(視奏)? | トップページ | こころの中に“うた”をもつギター|波多野睦美+つのだたかし[2007/09/24|ハクジュホール] »

2007/09/23

資本主義をHuckすることについて──毛利嘉孝『ポピュラー音楽と資本主義』

 ずいぶんと長いことご無沙汰しました。その間にわがアルテスパブリッシングはウェブサイトがオープン! 連動してブログも始めたため、ついついこちらがお留守になっておりました。ぺこぺこ。
 というわけで、アルテスのウェブサイトはこちらです。

 www.artespublishing.com

 9/29店頭発売予定の第1弾、内田樹さんの『村上春樹にご用心』は現在、注文殺到中!(いや、おおげさでなく) 乞う、ご期待。

 + + + + + + + + + +

 さて、前置き(というか言い訳?)はそれくらいにして、本題に。

 昨日(9/22土)、ジュンク堂池袋店のジュンク堂カフェにておこなわれた毛利嘉孝さんと清野栄一さんのトークショーを聴いてきました。毛利さんの『ポピュラー音楽と資本主義』(せりか書房)発刊記念のイベント。

 毛利嘉孝さんは東京藝術大学音楽学部の准教授ですが、専門は社会学で、とくにカルチュラル・スタディーズの分野の第一人者として知られるひと。当blogでもずいぶん前に、毛利さんの『文化=政治──グローバリゼーション時代の空間叛乱』(月曜社)について書いたことがあります(記事はこちら)。清野栄一さんは存じあげませんでしたが、作家にしてDJのかた。

 『ポピュラー音楽と資本主義』は、1970〜80年代の洋楽を中心にとりあげながら、しかし芸大の講義用に──つまり1990年代以降に生まれた学生さんたちにもわかるように──書かれた書。ということもあってか、このトークショーでは、DJとしてさまざまなパーティを主催する清野さんによる「現場からの視点」をまじえながら、たぶんこの本にはとりあげられなかったようなつっこんだ議論もふくめて、かなり自由な対話が展開されました。

 + + + + + + + + + +

 毛利さんの一貫した姿勢は、ポピュラー音楽(文化)というものが、個人の自己表現として「自由」というものを標榜しながらも、その発生から抜きがたく「資本主義」的な性格をもつことを明らかにし、そのことに自覚的になることの大切さをうったえる点にあります。それだけであれば、よくある「イデオロギー暴露」的な議論ということになると思いますが、ぼくがもっとも評価したい点は、やむをえず資本主義の圏内に生きながら、ぼくたちがどうしたら無意識的に資本主義的志向を肯定し、増進する傾向から抜け出すことができるか、ということを実践的に考えるところです。

 以前、『文化=政治』についても感じたことですが、資本主義にたいして社会主義とか共産主義とか、違った「主義」を対立させるのではなく、むしろ資本主義の圏内にありながら、内側からそれを「書き換える」こと──この日映像で紹介された、パリス・ヒルトンのCDを“作り替え”てCDショップに“置き逃げ”するバンクシーというグラフィティ・アーティストの行為(参考記事)など、まさに資本主義の枠組を最大限に利用しながら、それをおちょくるゲリラ的戦術です──、つまりその枠組そのものを壊すことはどだい不可能だし、そんなことをすればわれわれじたいのライフラインも壊してしまうことになる──そういうかたちでわれわれを縛りつけ、従わせている資本主義の枠組を、意識にのぼらせ、告発し、おちょくり、そして「書き換えて(huck)」しまうこと。それこそが「ポピュラー文化」の最大の使命なのだ、ということが、毛利さんの著作、そしてこの日のトークからは感じられました。

 もともと音楽的にも、ポピュラー音楽というものは、芸術音楽の堅牢な形式を乗っ取って、そのなかで遊ぶ、カッコ付きの「自由」の表現形式であるわけであり、単に直接的な社会的メッセージをそこに載せるよりも、パロディ、おちょくりといった「笑い」をまぶすことのほうが、ポピュラー音楽そのものの本質に忠実なことのように思えます。[木村 元]

|

« 小鍛冶邦隆の「Carte blanche」005|Lecture(読解)? Lecture à vue(視奏)? | トップページ | こころの中に“うた”をもつギター|波多野睦美+つのだたかし[2007/09/24|ハクジュホール] »