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2007/10/27

戸ノ下達也の「近代ニッポン音楽雑記」005|故郷を愛した詩人の半生──浜松文芸館「清水みのる展」

 1940年にレコード発売された《別れ船》と、1946年にレコード発売された《かえり船》は、作詞・清水みのる、作曲・倉若晴生、演奏・田端義夫の三者により完成された楽曲である。私は、戦時下の「別離」と敗戦後の「帰還」を切々と歌い上げるこのふたつの楽曲が、戦前から戦後の社会相の一面を示す音楽の証人であると認識している。この時期の楽曲で、作詞・作曲・演奏が同一の組み合わせで、しかも一貫性のあるテーマを歌っているのは、この二曲が唯一の組み合わせではなかろうか。

 その作詞者である清水みのるの足跡をたどる展示が、政令指定都市となった静岡県浜松市の浜松文芸館で開催されている(11月15日まで)。同館は、清水のほか浜松出身の文化人10名を「浜松文芸十人の先駆者」と位置づけ、常設展示で紹介しているが、今回は清水にスポットを当てた意欲的なとりくみであった。

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 清水みのる(本名・實)は、1903年に現在の浜松市西区伊佐地町で生れた。旧制浜松中学校を経て、立教大学へ進み、水泳で活躍するかたわらで佐藤惣之助に私淑して詩作を始め、その後サトーハチローとも親交を深めた。1931年にポリドールに入社し1938年に田端義夫のデビュー作である《島の船歌》を作詞して、作詞家としての道を歩み出す。その後、1941年発売の《森の水車》、1947年発売の《星の流れに》、1949年発売の《かよい船》、1953年発売の《ふるさとの燈台》、1955年発売の《月がとっても青いから》、1957年発売の《雪の渡り鳥》などのヒット作品を手がけるいっぽうで、校歌などの作詞も行っている。またとくに1960年代以降は、地元である浜松を詠った純粋詩の創作に情熱を傾けるいっぽう、後進の指導や福祉活動にもかかわるなど、1979年に亡くなるまで幅広い活動を展開した詩人であった。

 展示では、誕生から晩年にいたる清水の半生が、母校・伊左見小学校に保管されている資料、写真やレコード、自筆原稿や書簡などによって跡づけられている。展示された資料からは、故郷を愛し、また詩を愛する清水の人間性が伝わってくる。《別れ船》《かえり船》《ふるさとの燈台》といった楽曲にたいする清水自身の評価であるとか、大衆歌謡の作詞にとどまらない戦後の活動、家族への愛情に満ちた書簡などからは、清水の詩作に対する信念や、人間として生きる姿勢が表れているという印象を受ける。私自身の問題関心に引き寄せて考えてみると、故郷を意識して書かれた《森の水車》創作の背景、《別れ船》から《かえり船》へ、すなわち戦中から戦後へと継続していく清水の意識、そのいっぽうでアジア・太平洋戦争期にポリドール専属の作詞家という立場から創作されたと推測される《屠れ米英我等の敵だ》《マレーの虎》といった時局即応型の楽曲を作詞した清水の心境、召集中に作詞され戦後になって楽曲化された《ふるさとの燈台》に関する清水自身の思い入れ等々について、つっこんで考えてみたいという意識に駆られている。

 1930年代から50年代にいたる時期の大衆歌謡は、清水が私淑した佐藤惣之助のほか、西條八十、大木惇夫、野村俊夫、佐伯孝夫、サトーハチロー、静岡県出身では藤田まさとといった詩人たちが、独自かつ多様なスタイルの詩を発表し、古関裕而や古賀政男、佐々木俊一、大村能章、万城目正といった作曲家たちがそれぞれの持ち味を発揮した作曲によって多くの楽曲が発表され、映画やレコード等により普及して愛唱されていた。そこには純粋な叙情性であるとか、感情や心情を歌いこむ本来の「歌謡」があり、また社会状況に即応して「上から」の主導により制定された公的流行歌ともいうべき「国民歌」があり、という状況であったが、清水の活動を振り返ってみるとあらためて「歌謡」の存在の重要さに気がつく。たとえば拙稿「レコード」(『歴史をよむ』東京大学出版会、2004年、所収)でも論じたように、1943年8月から44年8月の1年間に発売されたレコード枚数のデータからは、この時期の大衆歌謡の特徴をかいまみることができる、すなわち、1943年9月発売の《若鷲の歌》が発売枚数233,000枚という圧倒的な支持を受けていたいっぽうで、すでに1940年に発売されていた《別れ船》が43,000枚で第5位、同じく1940年発売の《暁に祈る》が41,000枚で第6位とベストテンにランクインしていた。これは、日本軍が軍事的に戦略的守勢に立たされていたこの時期にあってもなお、国民大衆がどのような「歌謡」を求めていたのかという、ホンネの意識をうかがい知ることのできる定量的なデータといえよう。

 あたりまえのことであるが、歌詞とメロディが一体となってはじめて「歌」のよさ、すばらしさがきわだつ。社会状況が変わり、生活習慣が変わり、というすべてが激変していく時代にあっても、人々の感情や心情に則した「歌」は、生命を与えられ生きつづけていく。清水の代表的作品はこの事実を如実に物語っているのではなかろうか。そのようなことを感じた企画であった。[戸ノ下達也]

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