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2007/10/09

プロの合唱団の存在意義とは?──東京混声合唱団第212回定期演奏会[2007/10/05|東京文化会館小ホール]

◆シベリウス─没後50年─とその周辺の作曲家達
 2007年10月5日(金)19:00 東京文化会館小ホール

◎曲目
 シベリウス/愛する人
       舟旅
       失われた声
       島の火
       つぐみのように
 リンヤマ/カレワラ組曲
 クレメッティ/キリストは我らのために苦しみを受け
 シベリウス/主に向かって歌え
       風よやさしく吹け
       陸と海の男たち
       夢
 「アレクシス・キヴィの詩による合唱曲」
  ラウタヴァーラ/我が心の歌
  シベリウス/我が心の歌
  メリカント/我が心の歌
  パルムグレン/ブランコ
  マデトヤ/幸福

◎演奏
 松原千振(指揮)
 東京混声合唱団

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 10代の前半から合唱の世界に入り、20代後半までかなり濃密な時間をそこで過ごしてきた自分にとっては、東京混声合唱団はやはり特別な存在である。高校、大学の時分は、とにかく知らない合唱曲を誰よりも早く知りたい、という欲求が強く、LPなどを片っ端から聴きあさったものだが、「日本唯一のプロ合唱団」(いまでもそうなのだろうか?)であったトウコンは、さすがに録音も数多く、われわれにたいして新しい音楽のイメージを提供する重要な存在だった。

 ぼくは当時から大規模な合唱やいわゆる「熱演」が好きではなく、それはその後の古楽趣味なんかにつながっていく性向なのだが、東混の演奏はあまり好きとはいえなかった。他に録音がないから仕方なく聴いていた、という面が強い。

 じっさいは東混はどちらかというと少数精鋭タイプの合唱団だから、大合唱というのとは違うし、熱演というのとも違う。実力のある歌い手がその作品を演奏する必要最小限の人数集まって、もともともっている高い技量の範囲内で余裕をもって歌っているわけだから、「熱演」の反対ともいえる。だけど、たぶんひとりひとりの声の「厚み」や「声量」、そしてその独特の「声楽家的な歌いまわし」が、「どうも暑苦しい」と感じてしまったのかもしれない。ただ、田中信昭氏の独特の日本舞踊のような指揮がユーモラスで、いつもそれは楽しみだった。

 その後も折に触れ、東混の演奏に接したが、なんとなく格別の印象をうけることなく、しだいに合唱の世界からも遠ざかってしまった。

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 今回、ひさびさに東混を聴いて、けっこうびっくりした。ぼくがよく聴いていたころとはまるで反対の「風通しのよさ」を、この四半世紀のあいだに東混は獲得していたのだ。この変化はいつごろから起こったものなのだろうか。

 思えば、「プロの合唱団」とは、けっこう微妙な存在である。合唱というのは、声楽や器楽とくらべて、プロとアマの差がつきづらいジャンルである。むしろ、年がら年中同じ曲を練習して、1年に1回の演奏会にすべてをかけるアマチュア合唱団のほうが、音楽の完成度や気持ちの入り方において、はるかに上をいく、ということはありうるであろう。専門的な訓練をうけていなくては読み解けないような現代音楽の譜面も、それこそ1年間かけてがむしゃらに練習すれば、それなりの水準で読み解くことができるようになるかもしれない。

 とすれば、プロの合唱団の存在意義は奈辺にあるのか。やはり、「知られざる音楽の紹介」ということこそ、その筆頭にあげられるのではないだろうか。新しい音楽の委嘱初演、埋もれてしまった音楽の蘇演こそが、プロ合唱団・東混のもっとも大きな存在意義であろう。

 その意味で、この四半世紀に東混が獲得した「風通しのよい声」は、知られざる音楽を紹介するという目的において、もっとも強力な武器となろう。それがその楽曲にとって理想的な演奏かどうかはともかく、「楽譜を眼前にするがごとき演奏」を、この夜の東混はたしかにしていたと思う。

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 曲目は、おそらく日本ではじめて紹介されるものばかりだったのではないかと思われるが、どれもひじょうに充実した内容で、おそらく今後スタンダードなレパートリーになっていくのではないかと思わせるものばかりだった。

 それらを確信をもった指揮で表現する松原千振。曲間にマイクをもっての短い解説も曲の理解をたすけて好ましいものだったが、「知られざる音楽の紹介」のために欠かせないもうひとつの要素──学者としての指揮者の存在──を彼は理想的なかたちで体現している。松原の北欧音楽研究が、東混という媒体を得て着々と進行してゆくのを、演奏を通じてリアルタイムで知ることができる、というのも、東混を聴くもうひとつの楽しみかもしれない。[木村 元]



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