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2007/11/08

戸ノ下達也の「近代ニッポン音楽雑記」006|近代日本をピアノ曲で辿る──堀江真理子ピアノリサイタル[2007/11/07|カザルスホール]

堀江真理子ピアノリサイタル~1900年啓かれた日本のピアノ曲~(デビュー25周年記念リサイタル)
 2007年11月7日(水)19:00 日本大学カザルスホール

◎曲目
 滝廉太郎/メヌエット(1900)
      憾(1903)
 山田耕筰/夜の詩曲(1917)
      忘れ難きモスコーの夜(1917)
      青い焔(1916)
      黎明の看経(1916)
      春夢(1934)
 信時 潔/譚詩曲(バラード)(1925)
 成田為三/浜辺の歌変奏曲(1942)
 下総皖一/パッサカリアと舞曲(1941)
 箕作秋吉/夜の狂想曲(1935)
 菅原明朗/水煙(1930〜32)
 橋本國彦/三つのピアノ曲(1934)
      1.雨の道
      2.踊り子の稽古帰り
      3.夜曲
 宅 孝二/赤い扇(1942)
      ロンド(1948)

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 最近、ピアニストによる邦人作品の再演や録音がめざましい。それも戦前から戦中期の作品を主体になされていることは、注視すべきであろう。たとえば、花岡千春による信時潔や橋本國彦、畑中良輔の作品、白石光隆による成田為三作品の演奏や録音などは、その代表例であろう。今回の堀江真理子のリサイタルは、サブタイトルにあるとおり、瀧廉太郎を起点とする20世紀前半の邦人作曲家によるピアノ作品を鳥瞰する意欲的な取り組みであった。

 堀江のトークによれば(筆者の意識が交じっていたらご容赦のほど)、これまで自身の視点や取り組みが「西洋」起源の音楽に集中し、これが音楽のすべてであるかのごとく考えてきたが、同様に「西洋」音楽に向き合い、作品創作に取り組んできた日本の作曲家とは、そしてそこで生み出された作品とは、といった素朴な疑問について考えたという。そして、自国の作曲家が創作した、ほんらい身近であるはずの「音」が顧みられることなく埋もれ忘れ去れている問題を認識し、演奏しているという。なにより「デビュー25周年記念」を1900年代から1940年代の邦人作品のみで開催することじたい、並々ならぬ決意表明であるのではなかろうか。

 あいかわらずヨーロッパ崇拝傾向の著しいわが国のクラシック音楽界において、邦人作曲家や作品に特化してプログラムを構成することは、「日本人としてのアイデンティティを問う」「ナショナルな意識の反映」などといった側面のみデフォルメされるきらいがある。そのように強調したがる一部の評者もいるようだが、私自身はそのような一面的な捉え方で邦人作曲家や作品を論じることに抵抗がある。本質は、1870年代から今日に至る歴史の中で、音楽文化がどのように息づき根づいてきたのか。音楽文化が社会や大衆とどのようにかかわってきたのかといった科学的・客観的な考察こそ求められるのであり、そのひとつの視点として作曲家と作品の評価が問題となるのである。しかし、堀江がいうように、まずは「音」を聴くことの困難な状況を打破していくことから始めなければならないことは、わが国の音楽状況を端的に物語っている。今回の演奏会は、私の問題意識や、「音」をめぐる問題の根本をあらためて顧みる機会ともなった。

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 瀧廉太郎、山田耕筰、信時潔、成田為三、下總皖一作品による第一部は、試行錯誤のなかで自らの立ち位置を模索しつつ、作風を確立していく作曲家の姿を彷彿とさせる構成であった。箕作秋吉、菅原明朗、橋本國彦、宅孝二作品による第二部は、とりあげられた作曲家の30~40代の成熟した時期の作品であり、果敢に自分のスタイルを発揮していた勢いを感じさせる作品群であったように思える。

 堀江のピアノは、奇をてらうことなく作品に正面から向き合うていねいな演奏であった。とくに菅原明朗や橋本國彦のような水彩画をイメージさせる作品の演奏は、秀逸である。秋の一夜に幸福感を感じるひとときであった。

 来月19日にはこれらの曲がCD発売されるという。一部、花岡や白石が録音している作品と重複するが、聴き比べという楽しみもある。[戸ノ下達也]


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