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2008/01/05

谷口昭弘の「アメクラ・セミクラ」002──模索するアメリカ音楽の現在:調性音楽復権と多文化主義

 2003年にアメリカから帰国して、もう5年近くたった。ディズニーの映画音楽にかんする単行本に従事しているあいだ、なかなかアメリカ音楽の近況を細やかに追う時間がとれなかったのだが、いま「非実験系」のアメリカ音楽について書きながら、少しずつ、アメリカの、オーケストラ作品を中心とした新作への関心をとり戻しつつある。

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 2000年に創刊された『エクスムジカ』という雑誌にアメリカ音楽の現状について書いていたとき感じていたのは、調性音楽で書く作曲家たちが増え、また無調で書かないことにたいする後ろめたさが、米国のオーケストラやオペラ・ハウスのために作品を書く作曲家のあいだから、どんどんと薄れていっているということだった。また、クラシック音楽をふだん楽しむ層の嗜好がどのような音楽に向かっているのかを、より多くの作曲家が積極的に探りはじめたということも感じていた。私が「聴衆探し」とよんだ現象である。ジョン・コリリアーノのように、音楽をコミュニケーションの手段として強く自覚する作曲家もそのひとりといえるし、アーロン・ジェイ・カーニスやマイケル・トーキーといった、イギリスのアーゴ・レーベルが紹介していた作曲家が話題にのぼることも多かった。むろんこの2人は、現在も新作を披露している。

 これ以降、私がしばしばアメリカのメディア、あるいは『レコード芸術』の新譜で紹介してきたディスクを考えてみると、アーゴが新しいアメリカの潮流を紹介しなくなってからのちは、もともとアカデミックな色彩の濃かったニュー・ワールドや「アメリカの古典」シリーズをつぎつぎとリリースしつづけるナクソスが、あるいはテラークやアルバニーやセディーレといったマイナー・レーベルが、アメリカ国内の新作の様相──もちろんそれは、ごく表面的なものであることを認めなければならないが──を示しているように思う。

 こういったディスクや公共ラジオ放送で聴かれる新作の全体的な傾向は、調性音楽のコミュニケーション能力を信じながらも、19世紀的な情感いっぱいの音楽を露骨に復活させるということでもない、というものである。映画音楽は調性音楽の語法を長く広く継承してきた分野であるが、作曲家ブルース・ブロートンによると、近年は、いわゆる「映画の黄金時代」に聴かれた抒情的で甘美な音楽ではなく、クールなサウンドが好まれるようになったという(“On the Score with Daniel Schweiger: Bruce Broughton,” Film Music Radioにおけるブロートンの発言、2006年。http://www.filmmusicradio.com/。現在ブロートンのMP3ファイルは削除されている)。21世紀に調性音楽を書く作曲家たちにも、どこかしら、このクールさがあるように思う。それは「調性復活」がライヒなどミニマリズムに端を発するということもあるだろうし、調性が復活するとはいっても、それはそのまま19世紀的な音表現の復活につながるわけではないということなのかもしれない。

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 アメリカの新作における、もうひとつの傾向は、多文化主義がいっそう進んでいるということである。これはジョージ・ロックバーグのような、無調音楽を打ち破るものとしての様式併置や多様式主義ではなく、もっとゆるやかな、「ごった煮」的な音楽ジャンルやスタイルの混在である。ラップをとりいれたロバート・キャピローの《DC・シティ・ピース》(2000。http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=1076210)は、この流れを先取りしていたと振り返ることができる。2002年には、ウィントン・マルサリスが《オール・ライズ》を発表した。クルト・マズア時代のニューヨーク・フィルと、マルサリス自身がリードするリンカーン・センター・ジャズ・オーケストラが初演したが、その12の楽章には、明らかに20世紀音楽を意識した楽章があり、ラテン・アメリカン的な要素も、アフリカン=アメリカン的な要素もある、アメリカの万華鏡的な人種の混在を祝祭的にみせつけた作品だった。

 この流れを組む作品が2007年にも発表された。クリフトファー・セオファニディスの《難民》という作品だ(http://www.houstongrandopera.org/otherdisplay.aspx?pageid=748)。ヒューストン・グランド・オペラの委嘱によって書かれた、この「コミュニティ・オラトリオ」は、さまざまな困難を乗り越えてアメリカに移住してきた移民たちが、ヒューストンでどのように現在まで生き延びてきたかを、マイノリティ(アフリカ系、中央アメリカ系、インド系、メキシコ系、パキスタン系、ソビエトのユダヤ系、ベトナム系)の言葉や民族音楽をとりいれながら綴っていく作品で、移民国家アメリカにおいて、各民族がそれぞれの声をもちながらひとつのコミュニティを作りあげていることを、ヒューストンに見出す試みであった。

 このセオファニディスの作品が歴史に残る大傑作だというつもりは毛頭ない。レナード・バーンスタインが「折衷」と称してシリアスな表現にポピュラー音楽の楽器やアクセントをとりいれたものよりも、もっと無邪気であり、人によっては「安易」というのかもしれない。しかし、この作品の上演には、地域の音楽家が積極的にかかわっており、作品上演が、オペラ・ハウスの場で披露された一夜のモニュメントであったことには変わりがない。また、アメリカという国の人種のダイナミズムを音楽作品としてわかりやすく聴衆に提示したということも事実である。

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 以上述べてきた、調性音楽の復権と多文化主義の傾向がこのまま続いていくのかは、正直私にも予想できないのだが、セリエリズムや無調的な語法で書かれてきた音楽の発表の場が、いっそう大学や小さな編成によるグループに向けられているという感触はある。また、アウガスタ・リード・トーマスのように、無調で書くにせよ、抽象的な音の構築ではなく、なにかしらの描写的要素、文学的な背景をもったものが「ウケる」傾向があるのも事実である。

 やはりまだ、アメリカン・クラシックのメインストリームは模索期といえるのだろうか。[谷口昭弘]

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