戸ノ下達也の「近代ニッポン音楽雑記」007|オペラ《黒船》の意味するもの
ようやく新国立劇場で、山田耕筰の《黒船》が上演された(2月22日)。
筆者にとっては、今回と同じ栗山昌良演出による1995年の日本オペラ協会による上演に続き、2回目の《黒船》体験であったが、その前年の日本楽劇協会による「山田耕筰 管弦楽曲と劇場音楽の世界」の演奏会形式によるオペラ《あやめ》上演も山田のオペラ作品再演の脈絡で、今回の上演を機に思い出された。今回の上演にさいして、早稲田大学グローバルCOEプログラム「オペラが観た日本/日本が観たオペラ~黒船・夜明け・オリエンタリズム」の基調講演やシンポジウム、新国立劇場のオペラトークなど充実した企画も開催された。これらの企画を聞くことができなかった筆者が、以下のことを論じる資格があるのかは自問自答しているが、公演を観て感じたこととして書き留めておきたい。
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若杉弘芸術監督と栗山昌良演出による今回上演の最大の収穫は、序景を「初演」して当初山田が構想した作品像を再構成したことであろう。1940年12月の初演のさいは上演されず、その後の再演のさいもすべて上演されたことのない序景は、実質的に今回が「初演」ということになる。そのぶん上演時間が長くなったわけだが、この「初演」は、作品全体を見渡すうえでヒントとなる重要な要素がこの「序景」に散りばめられていることを再認識させてくれる結果となり、おおいに評価されるべきであろう。
演奏は、合唱を含め歌唱陣が自身の特徴を役柄に反映させており、その歌唱陣を支えつつときにおおいに主張する若杉弘指揮の東京交響楽団ともども好演。とくに領事役の村上敏明が、豊かな声量と表現力により大きな存在感を示していた。また吉田役の星野淳の、第3幕第3場の切腹の場面における歌唱は、言葉をかみしめた詠唱とも聞こえる深みのある演奏であった。お吉役の釜洞祐子は、第2幕、第3幕と進むにつれ、歌唱に磨きがかかり、全体を引き締めていたのが印象に残る。畑中良輔の歌唱監修あっての成果であることはまちがいない。
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この公演評は、私などが書くよりも他の評者の方々が書かれるのにおまかせすべきと考えて、公演を楽しむことに専念していたのであるが、プログラムに掲載された栗山昌良のプロダクションノートを読んで、どうしても気になる箇所があったので、あえてこの連載でとりあげさせていただいた。それは以下の部分である。
[本作品の]舞台となる幕末から明治時代をへて20世紀前半に至るまでと、戦後の20世紀後半から21世紀の現在までとでは、日本人の価値認識というのは180度変わってしまったわけです。それの良し悪しではなく、山田先生がこのオペラを作った当時の価値認識と、現代の価値認識とはまったく違っているという現実があります。この価値認識が異なっている状況の中で、山田先生がこのオペラの中で訴えたかった「日本人の心」を理解させ、その意図を曲げずに現代の日本人に理解させなければなりません。私がこだわるのは、戦前と戦後の「日本人の価値認識というのが180度変わってしまった」というくだりである。そもそも「日本人」という限定に違和感を感じるのであるが。大日本帝国憲法による天皇主権の国家体制から、軍隊がいちおう廃止され日本国憲法による主権在民の国家体制へと転換したという意味においては「180度変わってしまった」ことに依存はない。しかしそれが「日本人の価値認識」となると、はたしてそのように断定できるのであろうか。おそらく戦時下を生きた栗山は、ご自身の実感としてそのように感じているのであろう。それは一個人の意識として理解はできるのであるが、しかし拙著『音楽を動員せよ ~統制と娯楽の十五年戦争~』(青弓社)でも論じたとおり、こと音楽文化にかぎってみても、戦時下の動きが戦前と戦後とで断絶する面と継続する面が混在し錯綜しているのであって、また音楽家の意識のありようもまた同様であった。すべての人間の「価値認識」がある時点をさかいに180度変わることがはたしてありえるのであろうか。「変わってしまった」のであれば、昨今の憲法改正であるとか靖国問題、自由主義史観といった反動的な動きは起こりえないのではなかろうか。「180度変わってしまった」と断言できないからこそ、私はいまだに《黒船》(原題名《夜明け》)を創作した山田耕筰を、そして1940年に初演された《黒船》という作品そのものをどのように理解し論じたらよいのか、自信を持って確答することができず悶々としているのである。[戸ノ下達也]
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コメント
最近、知人から戦前のポピュラー音楽の名曲を集めたLPレコードを聴きました。こと音楽スタイルに関しては、確かに戦後にジャズが「復活」したということはありますが、戦前にもディキシーランドはありましたし、艶歌の前兆となる歌もありました。私はもっとドラスティックな変化を期待していたのですが、拍子抜けしたところもあります。軍歌の新作は確かに消えましたが、懐かしく聴く世代というのは現在もおりますし、レコード店の一角には戦時歌謡のカセットは必ずありますね。《軍艦マーチ》が海上自衛隊の公式曲であるというのも象徴的です。
いわゆる「反動」に関してですが、実はこういった戦前の価値観を、親から子へ、引き継いできたところがあるんじゃないかと考えております。つまり何かから跳ね返ってきたようにぶれたというよりも、もともと奥底に連綿と流れていた何かが吹き出したと言いますか。少なくとも、こういった「反動」に共感する若い世代は、それまで何者かによって、戦前的な価値観を「抑圧されてきた」のだという意識を持っているのではないかと思えてなりません。
投稿: 谷口昭弘 | 2008/02/25 16:32