[日誌:2008/03/21]理想的な書評、うたのはじまりとおわり
片山杜秀さんが『週刊文春』3/27号で吉田秀和さんの『永遠の故郷──夜』(集英社)を書評している。片山さんは書評家としても手だれであることは、『レコード芸術』で最近まで続いていた長寿連載「この本を読め!」などで周知のことであろうが、この吉田さんの本にたいしては、これまでのキャリアで身につけた手練手管をすべて捨て去って、虚心で対象と向かい合おうとしているかのようだ。少年が古典と出会ったときのような初々しい感動と、ひとことで本質を言いあてる書評家としての天分とがないまぜになり、ちょっとびっくりするくらい素晴らしい評となっている。
『レコード芸術』誌上で吉田さんが片山さんの『音盤考現学』を文字どおり「激賞」してから、ちょうど1カ月。このタイミングで片山さんに吉田さんの本の書評を依頼したのは、まぎれもなく『週刊文春』編集部の快挙であるが、片山さんとしては、ひとことでは説明できない複雑な心情があったのではないだろうか。ひとつ間違えば、書評でなく「返礼」として読まれる可能性もあるからである。
そこをぐっと踏みとどまって、書評としての原点に回帰することで、片山さんはそのむずかしいミッションにこたえている。原点とは、もちろん「著者を紹介し、作物を紹介し、その価値と読むものにとっての意味を明らかにする」ということである。吉田秀和という人物を周知のひととして紹介するのは簡単だし、その差別化の装置によって、好ましい読者だけを選別するのはだれしもがとる戦略であるが、片山さんはそうした業界的なジャルゴンをていねいにより分けて排除して、これまで縁のなかった読者にも敷居を低くしながら、業界のだれも到達できないような作品の深部にわけいって、だれにも平等に、さりげなく簡潔に示してくれる。
理想的な書評とは、こういう文章のことをいうのだろう。
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夕方から上野へ。東京混声合唱団第215回定期演奏会「動きはじめることば」(指揮:田中信昭、ピアノ:中嶋香、打楽器:多田恵子)を聴く。
演奏会のタイトルがいい。そのタイトルのイメージをもっとも感じさせてくれたのは後半の高橋悠治の《夜、雨、寒さ》。マヤの創造神話をテキストに、「世界の創造=分節」を、指揮者をおかずに語りとうたとを組み合わせて表現するのだが、それにより、「ことばの分節=うたのはじまり」、そしてさらに「声を合わせる」という合唱のスタイルの「はじまり」をも感じさせた。こういう意味の重層をさりげなく提示するところがこの人の作品のキモだろう。
銀色夏生のテキストによる小鍛冶邦隆の《マドリガルV》は、デフォルメされたタンゴのリズムにのせたポピュラー音楽的イディオムの引用、コラージュからなりたった作品。ポップな文化の過剰な堆積のなかから、作曲者のいう「痛切な叙情」が浮き上がってくる。ポップな文化は、事物の創造のときにあたえられた意味が時とともに消尽し(あるいは飽和し)、記号と化した段階で立ちあらわれるものだ。その意味で小鍛冶の作品は「ことばのおわり」「音楽のおわり」ののちにも作曲は可能かという、ある意味究極の問いを突きつけているようにも思える。高橋の作品に表現された「ことばのはじまり」と、小鍛冶作品の「ことばのおわりに顕れる詩情」を対比させるのもおもしろいだろう。[genki]
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